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指示代名詞der型と定冠詞の違い-ドイツ語文法

ドイツ語 指示代名詞と定冠詞の違い
ドイツ語 指示代名詞と定冠詞の違い

ある日のことです。NHKまいにちドイツ語講座を聴いていたら指示代名詞についての解説がありました。指示代名詞の一覧表には定冠詞と同じderやdas、dieなど定冠詞と同じ言葉が書かれていました。文章中にこれらのドイツ語が出て来ると、どちらが定冠詞で指示代名詞なのか区別がつきません。本ページではそれらの品詞の区別を試みました。

ドイツ語の指示代名詞der型

指示代名詞(Definitivpronomen)は1格と2格と3格と4格とがあり、2格は会話ではほとんど使いません。指示代名詞は定冠詞とは違います。der型は「これ・それ・あれ」と訳します。一覧表にしていましたのでご参照ください。

男性女性中性複数
1格
「が」
derdasdiedie
2格
「の」
dessenderendessenderen
3格
「に」
demderdemdenen
4格
「を」
dendasdiedie
ドイツ語文法 指示代名詞

指示代名詞と定冠詞の見分け方

定冠詞と指示代名詞の区別は続きに名詞が来るかどうかで判断します。

「このかばん」「そのピアノ」「この学校」「あちらの人」という形で名詞が続けば定冠詞です。

「これ・それ・あれは」「これ・それを」など具体的名詞を伴わない場合は指示代名詞です。

例文1

Die Schule ist in München. その学校はミュンヘンにあります。

この場合のdieは定冠詞です。

例文2

Ich mag das. 私はそれを気に入りました。

この場合のdasは指示代名詞です。

やる気を出す方法

motivation

やる気を出す方法について。勉強や仕事、スポーツなどを続けていると下がるモチベーションの向上と継続するための技術。やる気がなくてもすることが究極の答えです。人間は物事の繰り返しに飽きるようにできています。似たような作業を続けると、成果が出ないと脳が錯覚してやる気がなくなるようにできています。

似たようなスケジュールの毎日を過ごしていると、最初は楽しかったことでも何とも思わなくなります。それを心理学では「知覚の恒常性」といって類似の刺激に対する反応が低下する現象が起きているのです。毎日同じ時間に起床して同じ行動を繰り返すと何とも思わなくなる現象は一般的な言葉で「慣れ」とも言います。

やる気の正体

やる気とは一体何なのでしょうか。人はどうしてやる気を求めてやまないのでしょうか。

人は「慣れ」が生じると脳が興奮しなくなり中立の感覚になっていきます。それは興奮状態が異常だから正常に戻ろうとしているだけです。「やる気」とは脳の興奮状態のことでありドーパミンなどの報酬系の物質が出ている瞬間的で一時的な現象です。つまり、やる気の正体は結果を期待する気持ちが高まっている精神状態のことです。

やる気は一時的な脳の興奮状態です。

やる気が出る人の正体

「がんばろう」「さあやるぞ」と思う気持ちはよい結果を得られることが事前にわかっているからやる気が起きるのです。やる気満々の人がどのような状況でやる気を発しているか観察してみてください。大抵は「成功確率が高い行動」をする前にやる気を出していると思います。その成功とは、掃除であったり片付けやごみ捨てといった誰でもできる程度のことなのです。

誰でもできることに挑戦している

例えば赤ちゃんは「はいはい」ができるだけで嬉しく感じるので、次に「座る」という動作を覚えて「立ち上がる」ことを学び、「自分の足で歩く」ようになります。この行動は誰にでもできることなので苦に思うことがなく得るものは喜びだけです。

やる気が出ない人の正体

ではやる気が出ない人を観察してみてください。自分のことでも構いません。その人が挑戦しようとしていることは「敷居が高い」「難易度が高い」「やり方がわからない」「最適解がわからない」「労力を多く要する」など達成困難なことではないでしょうか?

疲労していてやる気が出ない

疲労や睡眠不足で朝から疲れている時にやる気を出すことは不可能です。疲労がある場合は、じっくり休んで体力を回復しましょう。なぜなら疲れた状態では姿勢を維持することが困難だからです。他に考えることがある場合も頭を切り替えられないなら何をやっても上の空です。

この状態でやる気を出すところか、実行しても効果が出ないのでまずは体の回復を優先させましょう。

他にやることがある

急な予定や人と会う約束がある場合、勉強などの自分だけでする仕事にやる気を出すことは困難です。なぜなら予定について考えたり、人をもてなす方法や服装などのことについて考える必要があります。脳は一つの事しか一度に考えられないようにできています。

単に人と会って会食したり遊びに行くというイベントがあるだけでも段取りを考えなければいけません。待ち合わせの時間や店舗の予約、持って行く物や贈り物について考えること、その場に適した服装や会話のネタ探し。終わった後の報告。人に会うことを考えるだけで一日、あるいは一週間、重要なイベントでは一か月以上経ってしまいます。

このようなイベントがある場合「自宅でがんばって英語の勉強をしよう!」などとは思えなくなるはずです。

習い事が「塾」「ピアノ」「サッカー」「野球」などとたくさんある場合も同じです。習い事をしながら東大受験のような複数教科の勉強に専念することはほぼ不可能です。なぜなら「習い事を極めるために必要な時間は教科の学習時間に匹敵するからです」。スポーツを学ぶにしても身体や栄養の知識といった読書系の学習時間がたくさん必要になります。プロ級のレベルで音楽を学ぶ場合は練習時間がたくさん必要なので東大に入ることは無理です。

習い事にかける時間を気晴らしの趣味時間として過ごすかプロを目指すかどうかによって時間配分が違ってきます。しかも本気になればなるほど勉強と習い事(趣味)の両立は不可能です。

確かに集中力や継続力を学ぶためには習い事も適度にあったほうがよいでしょう。しかしそれも度をすぎると本来の勉強に身が入らなくなってしまいます。

幼い頃の多趣味が功を奏するのは学者や経営者のようなゆとりのある職業だけです。皆勤の労働者になろうと思ったらスポーツ以外の趣味はやめたほうがよいと思います。

他に優先して考えることがあるなら、そちらの仕事をまず片付けましょう。

不適切な先生と教材

あるいは教材や先生が不適切なため学習結果が出ないときもあります。先生のレベルが低いとスキルの向上は望めません。先生のレベルが高くても教材や教え方が悪ければ向上は望めません。こうした不適切な学習内容を長く続けているとやる気そのものが減ってしまいます。

難易度が高い

または挑戦している内容の難易度が高い場合、報酬に釣られて夢を見ているような異常に強い動機が必要となってきます。周りから見たら実現不可能なことに挑戦している場合、夢を見つづけないとモチベーションの維持が困難になってきます。

例えば、競争率の高い仕事への就職や進学を目指す場合がそれに当たります。

目標への難易度が高い場合、到達までの手順は複雑になってきます。

また、難しい目標に挑戦するときは費用がかかることがほとんどです。

ダイエットとやる気

例えば太っている人が短期間で痩せようとすると「栄養に関する知識」が必ず必要となります。どのくらい水分を取って何を食べて、何を食べないようにすればよいのか確たる情報がありません。広告は人に物を買わせるために嘘をつくので信用できません。身近な人から痩せた話を聞くことが一番信頼できる情報です。ですが10kg痩せたというお知り合い自体が珍しい存在です。その最適解の情報にたどり着くために運命的要素を必要とするのでダイエットが困難になるのです。

信頼できる情報をある程度集めたら「私にもできるかも」という期待が高まりやる気が出るのです。

参考までに、減量するために運動は必要ありません。食事の量を減らすだけです。

やる気を出す方法

これらのモチベーションの仕組みがわかったところでやる気を出すにはどうすればよいのでしょうか。その方法は挑戦したい内容の難易度によって異なります。簡単なことについてやる気を出すのと、難しいことについてやる気を出すのとでは手順が違います。

やる準備をする

何をするにしてもまず準備です。したいことに対して適した服装に着替えます。その次に、行動する場所の前まで行きます。掃除なら、掃除機がある場所。皿洗いならシンクの前。勉強なら机の前。外出なら玄関の前。勉強なら机の前まで行って椅子に座ります。

例えば、勉強しようと何となく思っても、寝転がった状態で本もなければ勉強することはできません。昨夜寝るのが遅かったのに、朝からやる気満々になるのは到底無理な話です。お皿を片付けたいと思うのにキッチンにいなければ片付けることもできません。

要はやる気を出す前に準備が必要です。

やると決意する

決意は気合を入れるという手順です。時代劇で出陣前に気合を入れる「えい、えい、おー!」という声がけそのものです。まずは服を着替えてウォーミングアップしてから、作業をする場所まで行って、やる直前に「さあやるぞ」と決めるのです。

やってみる

準備と決意ができればあとはやるだけです。やる直前まで労力をかけたのだから、ここでやめるのはもったいないという心理が働きます。1歩踏み出すと2歩目の動作が簡単です。それは刺激が加わることによって身体が自然に反応するからです。

おっくうに思えること、嫌に思えること、事前に考えすぎて疲れてしまうようなことでも、実際にやってみると、やる前に考えていたことを考える必然性がなくなるので行動できるのです。

やる気はやってからも出る

みなさんの多くはやる気はやる前に出すものと思っていることでしょう。なぜなら行動する前に動機が必要だからです。ですが、やる気というものは実際に行動してからも生じてきます。それは手ごたえや難易度が適正である場合「やれる」という自信がついてくるからです。

目標を小さく分ける

あまりに遠い目標の場合、スモールステップに目標を分けたほうがよいでしょう。先ほども説明したとおり、赤ちゃんは実に小さな手順を踏んで身体を自由に使うことを学習します。

数学

まずは「物の数を数える」ことを学びます。そして「物を合わせたり抜いたりした数を数える」を学びます。これが数学の第一歩で誰もが幼児期に親から習うことです。物と個数という概念を学んだ次にそれを文字で表すことを学びます。

こうした小さな手順の積み重ねが数学の学び方です。いきなり難しいことを教えられても凡人に理解できるはずがありません。難しいと思うのは、どこかで何かを学び忘れているからです。

また、数学には文系のスキルも必要で母国語の理解力も欠かせません。野生の鶴や亀を見たことがない人がほとんどなのに、つるかめ算などと教えられても理解できません。

語学

外国語を話したければまずは発音と文字からです。そして平易な単語をいくつか覚えてから、文を繋げることを学ぶのです。しかし日本の教育では文法から学ぶので単語を覚えられない仕組みになっています。何はともあれ語学ではまずは簡単な単語と簡単な言い方を学ぶことがスモールステップに相当する手順といえましょう。

学問

何かの分野を学び始めるときは入門書や偉人伝をいくつか読むという作業がスモールステップに相当します。古代から現代までその学問がどのように発展してきたかわかると学びやすくなります。そして関連する分野の入門書も読んで、それから専門書を読み始めます。

哲学

また、これらの学問の基礎となっているのがギリシャ哲学です。古代の思想を学んでいないと数学も外国語、他の学問分野の必然性を理解することができません。

私たちは日本人でありながらもギリシャからはじまる自然科学の恩恵を受けています。なので、そのルーツたる古代の自然科学を学ぶことは世界の人たちと共に生きていくうえで最低限のマナーといえましょう。

音楽

楽器演奏や声楽などの音楽でやる気を出すには努力だけではどうにもなりません。これらのジャンルは幼児期から歌を歌ったり楽器を演奏している必要があります。後からはじめてもデビューするのは老人相手のコンサートなどのボランティアでの舞台しかありません。

残念ながら、ピアノやバイオリンを小学生から始めても著名なバイオリニストにはなれません。

管楽器はライバルたちも大きくなってからはじめているので成功するチャンスはまだ大きいです。

音楽の場合、最初にその楽器をはじめた人の年齢や、どこで活躍したいかという目標次第で夢が叶う確率が大きく変わります。

やる気を出す前に、成功の可能性を調べたほうがよいでしょう。目標に対する成功確率が大きければ大きいほどやる気は出ると思います。例えば自宅で音楽の先生をするという目標は、自宅と防音室があれば誰でも可能です。ソリストになりたいという目標は、ライバルたちが最初にその楽器をはじめた年齢よりも早くはじめたほうがお得です。

スポーツ

運動選手も幼児期から体操か玉蹴り、走る遊びを毎日続けていないと、滅多になれるものではないと思います。アマチュア程度ですら小学生の頃から身体を鍛えていないと所属は難しいと思います。特に身体の柔軟性が求められるジャンルでは幼児期の時点で開脚などができていないと競技で勝利することは困難でしょう。

また、スポーツは一人ではできないので所属チームの精神状態が結果に影響します。怒鳴り声だらけのネガティブなクラブで世界レベルの選手の才能を開花させることは無理です。なぜならライバルの監督は選手を褒めまくって最高の状態に導いているからです。

しかし日本国内だけなら、たいていの監督は暴力的に指導しているので努力次第で中の上くらいにはなれると思います。しかしその中でポジティブな著名監督が5チームくらいいたとしたら、その業界で暴力的なチームが上位に来ることは難しいと思います。

所属チームの監督が暴力的か、褒めるタイプか入会前によく調べておきましょう。

また、目標についても趣味程度か、試合に出られる程度、試合に勝つ程度などによって難易度が変わってきます。スポーツの世界では目標は低ければ低いほど簡単に達成可能です。

やる気がでる本

さいごに実際にどうやってやる気を出すか、わかりやすい本を紹介したいと思います。5歳児のくれよんしんかちゃんが教えてくれる小学生でもわかるやる気を出す方法。普段は哲学書を読み漁っている私でも、この本ほどやる気を詳しく説明している本はないと思います。文章がとてもわかりやすくて大人でも納得できる一冊です。

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例えば、やる気は行動してから出るものだとこの本に書かれています。確かにその通りではありますが、そうならないからみなさん苦心しているわけで。人生の確変イベントが起こり浮ついた気持ちで勉強していても身にならないと私は思います。

やる気とは、信じること

私は「やる気とは、信じること」だと思います。自分の意思で何かを信じることほど難しいことはありません。なぜなら、やる気とは、いるかいないか観測できない神様を信じるようなものだからです。努力によってそこそこにはなれても、ネイティブスピーカーになれないのは「やる気」があっても「やり方」が間違っているからです。

つまり、これまでの方法を変えないと発展が望めなくなってきたときに、やる気が萎えるのです。あと一歩の努力でなれるというエジソンの名言もありますが、それは1万回やり直しても、必ずできるというスキルと根拠があってのことです。

数学と哲学のモチベーションの関係

数学やプログラミングといった機械的な仕事はやる気があれば知識と思考だけで達成可能ですが、語学というコミュニケーションの習得には数学と同じ記憶力や思考力といった基礎学力に加えて「聞く力」と「表現する力」が数学的技能に+されます。その分だけ難易度が高いのです。だから数学者は外国語を学ばない人が多いのです。数学者が哲学者になるのは「外国語のようにコミュニケーションをする必要がない」からです。知識をインプットして、獲得した思考方法という道具を使うところまでは哲学も数学も同じです。だから数学者は哲学を好む傾向にあるのです。

聞く力は難易度が高い

日本人の英語のリスニング能力が低いのは、普段からNHKのわかりやすい発音ばかり聞いているからです。英語のリスニングは、あいまいな音がたくさん出て来るので、日本人は普段以上に高い注意力を払わないと聴き取れません。しかしこれは、訓練次第で何とかなると思います。聞く力を鍛えるためには集中力と経験が必要です。

経験の獲得は得難い

人の一生で、人と有意義な談話をする経験はなかなか無いものです。有識者レベルであれば、共通の友人が持っている情報が濃いですが、世の中の人々のほとんどが有効な情報を持っていません。私たち凡人が持っている情報は既にインターネットで流布されているものがほとんどです。

また、他人との関係は、その人と会話すればするほど深くなるとは限りません。意見が違うので友達関係を終わらせるときもやってきます。自分と他者との関係は夫婦関係とそっくりです。夫婦は意見が違っても共通の目標があるので一緒に暮らしています。しかし自分と他人との関係では、他の人はそれぞれに夢があるので仲良くなったとしても一緒に暮らすことはできません。

経験が得難いのは友を得難いことと同義だと私は思います。友人を作るためには自分が何かに挑戦するなどして充実した人生を歩んでいる必要があります。その挑戦が遊びであっても構わないし、闘病でも構わない。

やる気とは、何かを獲得しようとする気持ちそのものです。つまり欲望があってはじめてやる気がでるのです。

岡潔 情緒とは何か

岡潔 情緒とは何か

岡潔(1901-1978)は日本の数学者です。岡は大阪に生まれ1919年に京都帝国大学に入学し1923年に数学に転向して1924年に卒業しました。11929年から3年間フランスのパリに留学して帰国しました。1936年から1940年の間にをクザン I・II 問題を解決して発表しました。1940年に京都帝国大学で理学博士号を取得しました。1940年から1969年の間、奈良女子大学の教授をしていました。

数学で顕著な功績を修めると同時に、彼は哲学研究を行い情の存在を発見しました。このページでは「岡潔思想研究会」の講演記録を参考に、彼の言う情緒とは何かについて考えたいと思います。

情緒

」「真情」「情緒」は岡潔の哲学の核心です。明治以前の日本人にあって、それ以降の日本人に欠けているものと岡潔は指摘しています。一般的な「感情」といえば、愛や優しさなどといった言葉で形容されますが「情」とはそれらの感情とは別の概念です。

一方でデカルトは感情的なものを退化した人類に見られる劣ったものとして見ています(※この人は理性主義です)。

岡潔は感情ではなく情緒こそが人間の根源のところにあると考えます。

感情

感情とは西洋の概念であり心の表層にあらわれる感覚を言語化したものです。イエス・キリストの愛も岡潔によれば「感情」のひとつに含まれます。ここでは一般的な喜怒哀楽、そして細分化して表現される種々の感情が含まれます。

情とは小川を流れる水のようなもので、この宇宙すべてに存在していると岡潔は言いました。研究会の記録によると、人間の精神は10段階あり、情が最も深いレベルにあると岡潔は考えました。彼の考えによると、西洋の考え方で認識できる心とは「五感」「感情」「知識」「意思」「意識」「無意識(エス・リビドー、岡潔の造語のマナ識)」の領域までとしています。それを第一の心(前頭葉=自我)と名付けます。

岡潔は第二の心の存在(頭頂葉)を発見し、情・知・意に加えて「集合的無意識(ユング心理学の用語)」の下に「真如(仏教用語)」があり後頭葉に「真情(岡潔の造語)」があるとしました。

西洋人が無意識までを自分だと思っているのに対し、日本人は真情までを自分だと思っていると岡潔は分析しました。

道徳

そして道徳は西洋哲学の法や倫理ではなく情だと岡潔は述べています。幸福についても一般的な快楽ではなく情のことを幸福と言っています。人だけでなく動物でさえも情というものがあるので信頼してお互いを支え合うというのです。情に従えば人を傷つけることもなく、情とは儒教の仁に相当するものでもあり、美でもあるのです。

彼の言葉からは「情緒=情=真情=仁」となっておりこれらの文字を同じ意味で使っていることがわかります。儒教の仁の実践は形式的で本質を伴わないものになって政治の道具に使われていると岡は批判しています。

情は濁る

岡潔によると、情は時に濁るものであり、戦後の日本人の情は濁っていると嘆いています。つまり心が汚れているのです。荒廃した日本人は、もはや戦前の日本人ではありません。西洋の知識と資本主義を取り込んだことで心が醜く汚れてしまったのです。そして情が美しい人のことをいじめて社会から排除してきたので日本人はますます日本人でなくなってしまいました。

応神天皇

そして、日本人の心が腐敗していったのは応神天皇からであると岡は指摘しています。おそらくこの辺りから大陸の文明が皇室とともに持ち込まれたので中国と朝鮮の「知」を偏重するあまりに「情」が無視されていったと彼は分析しているのかもしれません。日本の中国化・朝鮮化はこの頃よりはじまったということでしょうか。

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岡潔と小林秀雄の対談本「人間の建設」を紹介したいと思います。少し古い文体ですが現代にも通じる内容の対談が行われています。おすすめしたいです。

考察

数学者であり哲学者の岡潔が言う情緒とは「(たとえ極悪人であっても)他人のために痛む心」のことであり「思いやり」であり「(極悪人をも哀れむ)ほんとうの優しさ」であるというのが彼の説を少し学んでみただけの私の結論です。

私は哲学のような難しいことはなにひとつわかりませんが、ニュースを聞いたときに痛む心のことが情緒なんだと思いました。要するに、心が痛まない人は情緒が退化していると岡潔は嘆いているのです(理論的にはデカルトのほうこそ退化した人類であるといえますが、岡はそのような考えを好まないでしょう)。

現代は岡の言う退化した精神であるほうが有利に生きられる世の中です。それと同時に世界がどんどん壊され破滅に向かっているのも人心が荒廃してしまった証と彼は考えているようですね。

もしかしたら何万年も後には人は単なる野生動物にまで退化しているかもしれません。

日本人の処罰感情

私たち現代日本人の多くが、悪いことは悪いことで罰せられなければならないものであり同情してはならないものと小学校などから親や先生に刷り込まれてきました。遅刻しただけで罪となり、それに見合わない攻撃が行われることもしばしばです。大河ドラマでも「ならぬものはならぬ」という決め台詞がありました。司法制度でも悪いことをした人は大した更生の機会も教育も与えられずに野に放たれ、自称善良な市民による拒絶という脅威に晒されています。

これらの無実の人々に対してすらハエ叩きが行われるような情け容赦のない文化は中国・朝鮮からもたらされたものであって、岡潔にとっては日本人の心ではないのでしょう。そのルーツが朝鮮半島や中国に色濃く残っていることは現代の隣国を見ても明らかです。

岡潔の理論によると、私たちが堂々と日本人であると言えるのは、中韓や西洋の害を消した時といえましょう。その真実性はさておいて。

アメリカの場合

米国では死刑囚であっても弁護によって死刑を免れるケースが多々あります。それだけ凶悪犯罪が多いということはさておき、日本では一度極刑になると取り消されることはありません。日本の高い有罪率(99.9%)は裁判で内容がよく吟味されていないことを証明していると思います。米国では冤罪(証拠がないのに投獄されること)がかなりあることが明らかとなっていることからも99.9%有罪はあり得ないことがわかります。もしかしたら日本人の裁判官の情緒が不正な判決を導いているのかもしれませんね。

情緒と甘え

私は岡潔の情緒を調べているうちに土居健郎の「甘えの構造」を連想しました。岡の言う「情」と土居の「甘え」は一体何が違うのでしょうか。

「おばあちゃん大好き」「お父さん大好き」「お母さん大好き」「先生大好き」「猫ちゃん大好き」「何々大好き」と子どもやいい年の大人が言った時の幸せな感情は「甘え」であると私は思います。

それは子ども(大人子ども)が依存対象に援助を求める姿です。韓国ではそんな言い方はまずしません。あるとしても「オンマ(韓国)」「ママ(中国・イタリア)」「マミー(米国)」など子どもが親を呼ぶときの一瞬の感情だと思います。

例に挙げた肯定的な感情の場合は問題ありませんが、嫌な感情を相手にぶつける時は最悪な事態が起こります。

この対象への純粋で幼稚な気持ちが大人になっても抜けずに(忘れられずに)あらゆる対象に向かって表現することがDVやクレーマー、ハラスメントなどを含む暴力の原因であると私は考えています。

お客様に対して幼稚な発音で「いらっしゃいませ」と言わされる女性を見たことの無い日本人はいないと思います。それを望んで従業員にさせたのはオジサンやお爺さんです。オジサンが売り子の女性を遊女か本気で勘違いしている日本人も見たことがあるでしょう。

私はこれらの現象も情であり、西洋人にも一般的に見られる情緒であるように思います。情が磨かれていない例であるように思います。

熟考と情

人の気持ちを思いやるという行為は(極悪人を含む)相手のことについて深く考えた経験がないとできないことです。それには窮状に対する想像力と気持ちの理解力が必要です。つまり考える力のない人に苦しんでいる人の気持ちはわかりません。

しかし人を思いやるのに学歴や知識の量は関係ありません。本当に賢い人とは、学歴や職歴を持つ人のことではないのです。

武田信玄は情の厚い人であることがわかります。上杉謙信も同じように情の厚い人でした。二人は互いのことを思うことで敵同士でありながら理解し合えたのです。そこに深い情があったことは言うまでもありません(男色も関係していたかもしれません)。

他者の心理を推察する習慣は何も日本に限られたものではありません。韓国人も中国人も、西洋人も同じです。だからこそ小説が書けるのであって、情の認識は岡潔が言うような日本人独特のものではないと私は思います。

情緒=魂を磨く

19世紀ごろの西洋の哲学者や文筆家も、岡潔も情緒を磨くことをすすめています。それは魂をも磨くことであり、一般的な言葉でそれを自分磨きと言います。

しかし残念なことに現代では日本人のほうが薄情であることがデータで示されています。日本は世界で有数のトラブルの際に他人を助けない民族になってしまいました。民心の荒廃が出生率や結婚率、虐待件数などにも退廃した日本人の姿が表れているようです。

注意点

この記事はYoutubeやウェブページから知った哲学者岡潔のことを私なりに理解するために書きました。情について理解できなかったので、色々調べてわかった風なことを書いているだけであります。実在した岡潔の考えをしっかり解説しているわけではありません。

確かに西洋人は仕事と友人の人間関係を明確に区別しています。友人に対しては思いやり厚く、仕事の人間関係に対してはその場限りです。しかし、日本人は気に入った人に対しては公私の区別をしない「情」はまだ田舎においては生きています。

日本人はいつまでたっても恩人に対して「情」を持っているのです。それを西洋人は迷惑に思ったりバカにすることがあります(※私の実体験です)。その事実からは岡潔が西洋人が情ではなく理性で人の重要性を区別している説が当てはまります。

だからといって西洋人の底が浅いなどと言うのは間違っています。情動を克服していることに対して彼らは誇りを持っています。カントは感情的な日本人やアフリカ人を退化した人類として見下しました。

となると、西洋人の「愛している」は付き合っているから「愛している」のであって「情緒的に愛している」とは違うかもしれません。「タイタニック」は間違いなく純粋な「情」によるものではありますが。

韓国や中国ドラマでは確かに「仁」を重視していることがわかります。特に韓ドラでは「仁」と「情」が混ざったような強烈な心理描写がありますが、中国ドラマでの「仁」は命がけで果たすことがあっても感情的にはなりません。

果たして情緒を磨き、感情に敏感であることがよいのか私にはわかりません。あくまで私が体験したケースなので、みなさんも体験してみるとよいと思います。

アラン幸福論から名言をいくつか解説します

アラン幸福論

自らの幸福について考える時、それが何かわからないことがあります。幸せの定義も人それぞれ違っていてこれだという決定的なものが見当たりません。ここではアラン「幸福論(1925年)」より印象に残った名言をいくつか紹介したいと思います。

アラン(1868-1951)はフランスのノルマンディー出身の哲学者です。本名はエミール=オーギュスト・シャルティエです。アランはペンネームです。彼は哲学教師をしつつギリシャ哲学などをもとにした独自の思想を打ち立て意思することで救われると考えました。

アランの幸福論

ここではアランの「幸福論」エッセンシャル版からいくつか興味深い名言を引用いたしました。

すべての道は正しい道である

誰も選択などせず、ただみんな立ち止まらずに歩き続けている。しかも、すべての道が正しい道である。人生の極意は・・・しっかりやり遂げることにある。自分がそうしたいと思えばどんな運命もよい運命だからである。

アラン幸福論 宿命

アランのこの言葉は生き悩む人々までもを肯定しています。今困難に直面していても、やり遂げることはよいことだと言っています。

私たちはうまくいっていそうに見える他者と自分とを比べ、劣等感を抱いたり不満に思ったりします。人は他人が持っているものが本能的に欲しくなるのです。しかしそれらを望んで手に入れるためには個人の努力だけでは達成不可能です。一番はおろか、二番や十番の座でさえ手に入れることが困難なのです。

そのような月にある餅のようなものを求めてすべてを失うよりも今を堅実に生きるほうが幸せなのは明らかです。

いらないものは払いのける

自分の憂鬱など認めないことであるが、なんでも容易に信じないことの本質である。自分をまやかして予言のしるしをありがたく思うようになると、世界はたちまちわたしたちの目前まで生い茂り、その存在を誇示するようになる。

予言者の魂

私たちが生活しやすい環境は、木を伐採して雑草を取り除き、食糧などを作って人工的に整えられている場所です。心も放っておけば雑草だらけで木々が生い茂るように鬱蒼としてきます。憂鬱の木は取り除いて栄養の種を撒きましょう。要するに人の言う事、特に権威ある人の言葉を安易に信じないことが幸せになるコツだと言っています。

権威ある言葉は時に人を無力化して判断力を弱め権威に頼らせることを目的として作られています。例えば何々しないと悪いことが起きる、何々すればダメ人間になる、などという類の言葉です。この類の言葉は宗教家や詐欺師、権力者がよく使う常套手段です。彼らの言葉を信じてしまうと、人は彼らのような人間に服従してしまいます。

人生を切り開くには自分を縛る思い込みの言葉を刈り取って挑戦します。

欲しいものは、自らとりにいく

人はだれでも、自分の欲しいものを手に入れるのだ。若い人たちはこのことについて、誤った理解をしている。彼らは、天の恵みがあることを祈って待つことしか知らないのである。ところが、天の恵みは空から降ってはこない。

アラン幸福論 意欲がある人々

昔からの慣習で、現代人の私たちは親や祖父母がそうしてきたように毎日お願いごとを神様に祈ります。そして無欲でいることを押し付けられ、無意識のうちに祖父母の価値観に従って「(最低限の健康と人間関係など以外に)何もいらない」と思いがちです。

しかし現実は自ら意欲して行動した人だけが欲しい物を手に入れています。健康を維持する体力ですら、毎日運動しないと手に入りません。山の上から景色を眺めるためにできるこは自らの足で登ることなのです。

何もせずに生きられるのは資産がある人だけです。その人のご先祖ですら必死で努力してきたのです。私たちのほとんどは健康と引き換えにしてでも富を手に入れる必要があるのです。

自ら求める

この世の中は、自ら求めようとしない人には、なにも与えてくれない。

アラン幸福論 意欲ある人々

なにもせずに神に祈っているだけでは小麦すら与えられません。自ら求める人とは、どんなことがあっても粘り強く、途中で投げ出さずに求め続ける人のことです。

世界は食料を獲得した者だけが生き延びるようにできています。それは人間についても同じです。その食糧を手に入れるためには貨幣が必要です。頭をよく働かせ、身体を動かすことしか幸福に至る道がないのです。

まとめ

アランは「行動することで幸せを手に入れる」と述べています。そしてどんなことでも感謝して受け取ることをすすめています。「希望から理由が生まれ、予兆から成功が生まれる」ので「どんなことでも縁起のよいことや明るい兆しにしてしまおう」と楽観主義を提唱しています。

心から希望を持てば、あらゆることが幸せの源になる

アラン幸福論 不機嫌

そして、どんな小さなことでも努力することで結果はかわります。

毎日少しずつ庭の草取りをするだけで庭全体がきれいに保たれるように。

(物質的に豊になれても)幸せは自分ですべてつくりだしていかねばならない。自分自身の中になんの富も持っていない人は、待ち構えている退屈に、やがて付け入られてしまうのである。

アラン幸福論 期待

日々の生活の中で自ら進んで取り組みたくなるような課題を見つけ、希望を持つことであきらめかけていた壁が崩れ、雑草が伸び放題となっていたところに野菜や花がきちんと並んでいることに気が付くのアランは言いました。

彼は繰り返し自分で行動することを進めています。自分で行動したところに喜びがあるというのです。受け身型の楽しいは中途半端であり、自ら求めて自分のもとにしてしまうことが楽しいそうです。

また、人からもらう幸せはまぼろしのようなものであり、そのような幸せはそもそも存在しないと射ています。しかし、自分でつくる幸せはまぼろしではなく学ぶ過程の中で得られるものであり、一生学び続けるものです。

知識が増えるほどもっとたくさん学ぶことができ、その喜びは減るどころか上達するにしたがって大きくなるのです。

幸せになるための努力をする

不幸になることは難しくない。難しいのは幸せになることである。だからといって、それはあなたが努力しない理由にはならない。その逆である。ことわざにあるように、やりがいのあることは何でも難しいのだ。

アラン幸福論 大げさな熱弁

私たち日本人のほとんどは勉強することに苦痛を感じます。本来の私たちは怠け者で難しいことは考えたくないのです。しかしアランは幸せになることは難しいが努力する必要性を説いています。

幸せになることは難しくても、希望を持つこと自体は簡単だとアランは言っています。

不機嫌を気にせず苦悩を自分と切り離して考え、人生をとことん楽しみ、自分に優しくして微笑み、自信をもって、上機嫌できることや、考えをぐるぐるめぐらせるより無頓着でいること、頭を空っぽにすることなどを幸せになるコツとして教えています。

幸せになることが難しいと言ったアランは、別の章では「幸せを願う気持ちがあれば、すぐに幸せになれる」と言っています。

感情は決まって悪いものである

悲観主義は感情からくるもの、楽観主義は意思からくるもの。ただ気分のおもむくままに生きている人はみんな悲しい。いや。悲しいということばでは弱すぎる。なぜならそういう人は、やがて怒り、激怒するからである。

結局のところ、よい感情というものはない。感情は、正確に言うと、決まって悪いものである。だから幸せはすべて、意志と克己心とから生まれるのである。

アラン幸福論 誓わなければならない

どうやらアランが言う「幸福」とは普通の人が考える幸福とは違うようです。多くの日本人は感情を基準に物事を判断しています。だから幸福度が低いのかもしれません。

感情の種類

人が持つ基本的な感情は次の6種類です。

  • 幸福
  • 中間
  • 怒り
  • 悲しみ
  • 驚き
  • 恐怖

ポジティブな気持ちは6種類の中の1種類しかないのです。しかも幸福を予期しているときにドーパミンが出て、幸福を手に入れるとドーパミンが出なくなるというのです。つまり幸福感を持続させる秘密は期待すること、希望すること、というわけです。

要するに、人がスポーツなどのゲーム性の高いものにハマる理由がこれです。結果がわかるまでの過程で快楽物質がドバドバ出てくるので面白いのです。演劇鑑賞もまた結末がわかるまでは続きが気になりますよね。旅行なども含めてお祭り感のあるものはすべて終わってみると祭りの後の寂しさがあります。

私からのアドバイス

ネット閲覧がやめられないのも楽しいからです。本を読むのも楽しいから、あるいは何かを期待しているからです。自分でも気が付いていないと思いますが、楽しいからスタバに行ったり、パソコンをしたり、勉強をがんばったりするのです。

試しに頻繁にやっていることをしばらくやめてみてください!スタバ通いをやめたり、趣味をやめてみたり、読書をやめてみたり。別の楽しみが見つかることもあったり、また同じことをやりたくなると思います。

退屈に感じるのは慣れているから楽しみが薄れた気がするだけなんです。

例えばある一冊の英単語集をマスターしようとして何度も読むと、最終的に10分ほどあればできないところだけを1冊やり遂げられるようになります。その時の感覚に学習しはじめのような苦痛はなくスラスラと読めるようになっています。これが慣れです。楽しいことであっても何度も繰り返すうちに楽しい感覚が無くなってくるのです。

努力が楽しくなる方法 継続のコツ

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どうすれば努力を継続することができるのか。楽しく努力する方法について。エジソンの名言から努力のコツについて探ります。発明王エジソンがなぜ努力を継続し続けられたのか。それは努力の本質を見抜いていたからです。ほとんどの人は努力をしてもあきらめます。なぜ普通の人々が努力をあきらめるのかというと、期限に間に合わないからです。あるいは努力する環境が整っていないからです。

努力を継続するコツ

受験のように時間制限のある勉強の場合、環境が結果に大きな影響を与えます。教材と反復学習ができる静かな場所が必要です。そして遊び時間をなくすことが凡人にとって重要です。天才の場合は幼少期より言語または数学のスキルの獲得が早く、凡人のような努力をしなくても能力を身に付けることが可能です。

時間を確保する

平凡な人が優秀な成績を収める場合、どうしても勉強時間を長く取る必要があります。遺伝的に天才に準じた頭脳を持っている場合、勉強時間はその分だけ短くて済みます。なので、努力が報われやすさは遺伝的な要素が影響しています。平凡な人が受験競争をする場合は努力する時間を長くとるしかありません。

あきらめない

遺伝的に知能が高い人はあきらめる必要は無いと思います。繰り返し努力を続けた結果、休んでいる賢い人に追いつくこともあり得るからです。ほとんどの人は成功の直前であきらめてしまいます。あきらめる人がいるおかげで、あきらめなかった1%の人だけが成功できるのです。

継続する

継続は力なりという諺どおり、続けるしかありません。音楽やスポーツなど体格や時間、費用的に限界があって続けられる環境にない場合、最初からあきらめて別の努力を試みたほうが得かもしれません。ほとんどの人はいいことがあるまで努力せずに待ったり祈ったりしています。

「楽しいことがありますように。」「いいことが起きますように。」

この祈ること自体は無駄ではありませんが、祈るだけで何もしないのであれば何もいいことは起きません。

失望しない

努力が実らなかったからといって失望する必要はありません。エジソンは「どんな失敗も新たな一歩となる」と言っています。勤勉であること、頑張ること、常識を守ることで価値ある仕事をやり遂げることができるのです。

引退しない

エジソンは「自分の葬式の日が引退の日だ」と言っています。老年になっても続けられる職業はいくつもあります。大病を患ったくらいで働けなくなることはありません。頭と手足が動く限り、努力を辞める理由はありません。

一つの仕事に集中する

平凡な人は一日の間に何種類もの仕事をこなしています。エジソンは発明することだけに仕事の時間を使いました。そして彼は「決して時計を見るな」と言っています。

失敗から学ぶ

うまくいかなかったことから学びましょう。しかしうまくいかない方法をまた繰り返してはいけません。何通りものやり方を試してみることで1回の成功が掴めます。

考えること

エジソンは「成功しない人がいるとしたら、それは考えること、努力すること、この二つをやらないからではないだろうか」と言っています。

天才と競争してはいけない

ただし、優秀な人であっても幼少より才能を発揮していたエジソンのような人を目指してはいけません。脳の仕組みが違うからです。彼のような天才に対抗できるのは優秀な人が束になることです。凡人に生まれたのであれば、天才になることは不可能です。

平凡かつ優秀な素質のある人が目指せるのはよくて優等生までです。そこから先はどれだけ一つのことに時間を割いて努力し続けるかの勝負の世界です。

ほかの楽しみを捨ててでも一つのことをやり遂げるのであれば、努力する価値はあるかもしれません。しかし努力しても無駄なジャンルで努力することほど無駄なことはありません。

凡人が努力するだけ無駄なジャンルとは、音楽やスポーツ、美や数学、物理学、哲学に関する領域です。凡人が努力してもマエストロにはなれませんし、メッシになれません。これらのジャンルには生来的な身体の要素が大きく関係しています。

数学や哲学に挑戦できるのは天才かそれに匹敵する努力を続けられる人だけです。そこそこ優秀な人は彼らの発見したことを一般の人々にわかりやすく伝える役目を担います。

優秀な人ができることは、天才の発見したものを利用することです。

凡人の私が思うこと

すぐれた人は、行き詰った時にあきらめたり他者に頼るのではなく自分で別の方法を試します。私のような凡人は天才たちが考えたことを本で調べて利用するだけです。またはお金を払ってすぐれた人からアイデアを教えてもらいます。凡人にできることはすぐれた人に頼ることです。

エジソンもまた他人の発明を自分の発明に利用していました。天才ですら他人が開発中の発明を参考にしていたのですから、凡人ならなおさら他者に頼らないとうまくいきそうにありません。

努力と思わない

がんばっていると思うとすぐに限界がきてしまいます。「いつもどおり」と思えば大丈夫。努力は続けるものなので、なるべく中程度の気持ちでやると持続しやすいです。感情的になると続けることは難しくなってきます。また、やってる途中で「これが何のためになる」「何の役に立つ」などと思ってもその思いを深刻に受け止めないことです。努力が苦手な人は自分の考えを尊重してしまいがちなので、重要ではない考えなら、そのまま続けたほうが無難です。

やる気は一時的な気分

誰もが毎朝スッキリした気分で起きて、ベッドの中で「さあ今日も一日楽しもう」「今日も元気でがんばろう」などと思いたいものです。しかし現実にそんな気持ちになれる人は恵まれた一部のひとたちだけです。ほとんどの人は学校や会社組織に隷属させられ自分の意思で仕事を決めて生きることはままなりません。仕事が楽しいならともかく、左遷やシフトに入れてもらえない、などの暴力的な脅しを受けながらの労働は楽しくないものです。また、成功しないリスクのある仕事でやる気を出せるのはトップレベルの人たちです。

ともあれ、やる気などというものは恵まれた人にしか起きません。なので行動の動機をやる気に頼ることは、多くの成功しない人たちにとって価値の低い感情です。

何かを成し遂げたいときは、やる気に頼らず無理のない範囲内で少しずつ行動しましょう。

努力を妨げるものへの対処法

勉強や運動などの努力を挫折させる原因について。私の経験ではそれらの努力を終了させる原因は外部環境にありました。隣の住人や家族の騒音、先生や家族の暴力、先生などによる脅し、狭い住宅。これらを避けることは寮にでも済まない限り不可能です。また、アニメやゲームのような嗜好性の高い娯楽も努力を妨げます。そして、内部環境の問題では疲労などの体調による不快感、考えることによる不安や焦り、苛立ちといった感情もまた集中を妨げます。これらの抵抗不可能に思える障害物をどうしたら乗り越えられるのでしょうか。

騒音

人は騒音の中で冷静になることはできません。音が物理的に脳に影響を及ぼすからです。この問題に対処するには静かな場所に移動することです。あるいは静かな時間帯に努力することです。例えば作家が夜に作業をする理由は騒音によるものです。音は思考をかき消して無能化します。

耳が悪くないのによく大声を出す人は無能であることがほとんどです。その人の頭が空っぽだから大きな声が出せるのです。一方で頭をよく使っている人は大声を出しません。

お祭り騒ぎが好きな人は総じて考えることが嫌いな人たちです。

感情

感情もまた努力を妨げる要因です。怒ったり焦ったり、嫌な気持ちになると努力が続きません。感情を行動の動機にできることもありますが、それは健康的ではありません。確かにイチローのように努力の根底に楽しさではなく不安があるような人でも努力することはできます。ネガティブな感情を努力の動機にするためには、人並み以上の忍耐力が必要です。

怒りもまた努力を継続する動機になり得ます。しかし誰もが理性でわかっているように、それは健全な理由ではありません。怒りによる努力は常に罪悪感が生じるので、不健康になるリスクがあります。

喜びや楽しさは努力を継続する動機になります。しかしこれらの感情は一時的な快楽なので時間とともに減ってしまいます。

挫折感は行動エネルギーを減らす感情です。考え直してあきらめるか、続けるかの選択に迫られるので心のエネルギーを消耗する感情です。

努力を継続するためには感情に頼らないで行動することが最もエネルギーを節約できると思います。

忍耐

努力の継続は忍耐しかありません。住宅環境や人間関係などの運命的な要素を避けることは多くの場合、不可能です。それらの努力を阻む原因を耐えるほかありません。でも安心してください。忍耐力をつける方法はたくさんあります。まずは、できるだけ努力を楽しいものと思う努力をします。人は思い方次第で、どんな過酷な環境も乗り越えられます。残念な環境であっても幸福を見出すことで生きる希望がうまれてくるのです。

究極的にいえば、寝る場所、食べる場所、衣服が揃っているだけで古代の人は幸せでした。ですから雨を避けて眠れる場所がありながら不平不満を言うのは古代の人にとっては贅沢です。

嫌な気持ちの原因は命令されるから

例えば「スタバは楽しい場所だ」と思っている若い人がいたとします。確かに私にとってもスタバは楽しい場所です。もし私がお金持ちなら毎日スタバに行ってもいいと思っています。ですが、カフェはリラックスできない場所と思う人もいるのです。同じ環境なのに、人によって正反対の感想が生まれます。

勉強や仕事、スポーツに関しても同じことがいえます。それを面白いと思う人と、そうでない人、中立の人などです。この違いは思い方、つまり幼い頃に感じた感覚が条件反射となって生じているだけの現象です。勉強嫌いの原因は親や祖父母、あるいは先生に虐げられたことによるものです。「勉強しなさい」という言葉は命令です。その言葉に従うことはすなわちその言葉を発した人の奴隷になることです。人には自由を求める心があるので、命令と受け取った人は反発する感情が生じます。それが努力への抵抗の原因となっている嫌な感情のひとつです。

命令されることが多くなればなるほど人間でも動物でも主人に逆らいたくなるものなのです。

自発的にやる

すぐれた親は、子どもが自発的に学習をすすめるように促します。しかし頭の悪い親は子どもに命令ばかりして子どもから自由を奪います。それは社会の人間関係でも同じで無能な人ほど他人に命じます。ですから、努力を続けるためには人付き合いも影響していることを自覚したほうがよいと思います。

裁量の大きな仕事をするためには知識と経験が必要です。良い大学に行くためには親や部活動とは距離を置いてひとりで勉強するまとまった時間が必要です。

すぐれた人は、それに見合わない報酬で仕事を頼まれることを嫌がります。すぐれた人は自ら商品を作って利益を上げることができるからです。

掃除のような家事についても同じことが言えます。家族に命令されるとやる気どころかやりたくなくなります。

それは人間が本能的に自由を求める生き物だからです。

幸福感を得る方法-消える幸福感の正体

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幸せについて考えたこと。幸福感が長続きしない原因について。偉大な哲学者は幸福とは何々であるとそれぞれ定義しています。それは身の回りのささやかな良いことを見つけることであったり、自ら行動して得る快楽だったりします。何が幸せかについては年齢や環境によってさまざまです。

このページでは幸福について、哲学者や偉人から学んだことや自分で考えたことを書いています。

幸福感の正体

理性で幸せが何かわかっていても幸福感という感覚が伴わないことがあります。若い人にとっては大病を患っていないことが幸福であっても、それに気づいていない人がほとんどです。あるいはそこそこ恵まれた家庭に生まれただけでも幸せなのに、その有難みがわからない人がいいます。

つまり、人は恵まれた状態に慣れると幸福感を感じないようにできています。

幸福の泉

水道が無い住宅に住んでいる人は、近くの泉まで水を汲みに行くことが仕事です。泉は昔の人々にとって重要な場所であり、恵みの象徴でした。古代から水汲み係は奴隷や子ども、女性の仕事でした。水汲みの人たちにとって蛇口をひねれば水が出ることは楽なこと、つまり楽しいことです。

人は本能的に清らかな小川や泉に喜びを感じます。それは本能的に必要なものがそこにあって満たされたからです。

幸福とは、つまり、生存条件が満たされることなのです。

苦あるところに幸福あり

大病を患った時は、少しでも良くなると有難みを感じることがあります。完治すれば有頂天になり神様に感謝したくなることでしょう。この幸福感も生存条件が満たされたことから生じています。ただし、健康体で日常生活に不自由しなくなると健康の有難みも苦しみも忘れてしまいます。

学校に行くこともまた本質的に幸福なことです。低料金で教養や礼儀などの知識や人を得られる効率的なシステムが学校です。学校とは何となく行くものではなく、知識と人を獲得して共通認識を教え込まれる場所です。人とのコミュニケーションを学び感情を抑えることを学ぶ場所でもあります。

親が子どもにそのような説明をすることはないので、日本の子どもたちは学校の意義を知りません。それが日常となっていると不平不満ばかりが目につきストレスになります。でも苦労して念願の学校に行けたという人の場合、授業を受けられるだけでも嬉しくなるものです。

つまり、幸福感を感じる前には苦の状態があるといえます。

赤ちゃんが微笑むためには泣いてお母さんを呼びつける苦しい状態が必要なのです。赤ちゃんは愛情と保護を大人から引き出すために本能的に泣いているのです。それは遺伝子によってプログラムされているので「愛情と保護」は人類にとって生存で最も有利になる条件ということも決まっています。人は愛と保護が得られないと苦しくて泣きたくなるように生得的にプログラムされているのです。

金曜日のウキウキ感

週休二日の労働条件の場合、金曜日になると気持ちが軽やかになり土曜日が一週間の中で最も楽しいのは勉強や労働などの苦役があるからです。幸福のためにはすすんで働いたり学ぶ必要があるといえましょう。

幸福感を得る方法

勉強や労働といった苦役からの解放感は素晴らしく感じられます。ですが退職した人など苦が少ない立場の人はこうした解放感は得にくいです。稼ぎが少ないと裕福な人のように旅行に行けない人もいます。人が幸福感を得る方法はさまざですが、大抵の場合、労働の末に消費行動で解消されます。

ではすぐに幸福感を得るためにはどうすればよいのでしょうか?

消費型の幸福感

現代で最も手軽に幸福感を得る方法は消費することです。飲食は胃袋が満たされることで幸福感が得られます。旅行など生活の場からの移動は、人類がもともと長距離を移動する動物的本能を満たすので幸福感が得られます。スポーツをすることは狩猟に似た達成感があるので狩猟本能が満たされ幸福感を得られます。果樹園での収穫体験は採集体験という本能が満たされるので幸福感が得られます。買い物もまた物を獲得するという本能が満たされるので幸福感が得られるのです。

  • 旅行や観覧に行くこと
  • 飲食すること
  • スポーツなどの体験型の遊びをすること
  • 買い物をすること
  • 映画やテレビ、漫画などを見ること
  • 疑似恋愛すること

行動力のある人は週ごとにどこかへ日帰り旅行に行っています。それを何十年も繰り返している人がいます。その人にとって自宅以外のどこかへ行くこと自体が楽しいのでしょう。

これらの消費することで得られる幸福感は、すべて本能欲求を満たすサービスであることがわかります。

費用のかかない幸福感

しかし消費ばかりしていると生存に必要なお金が無くなってしまいます。おそらく、誰もが知りたいのは「どうすれば幸福感を無料で得られるか」でしょう。先にも述べた通り、大病を患っていないことも確かに幸福だと思うに値すると思います。しかし、そうでない場合、何を基準に幸せと思うのでしょうか?それは人によりけりです。

行動して得られる幸福感なら、自分で部屋を掃除することや、家事をすること。普段やらない面倒な家事をすることなどが挙げられます。

行動せずに得られる幸福感なら、夏に涼しくなれるエアコンがあるだけで幸せだ・・・などと思うことです。

  • 無料で得られる何かを集める
  • 無料で動ける範囲を散策する
  • 無料で自然に触れられる場所に行く

例えば、海辺できれいな石や貝殻を拾うことでも本能欲求が満たされます。もっといえばゴミを拾うことでも収集したいという本能欲求が満たされます。そして無料の公園を散歩したり、農地のある道を散歩したりして楽園を求めて放浪したいという人間の移動本能を満たせます。

  • あるものに感謝する
  • 人から優しくしてもらったことに感謝する
  • 人に優しくしてみる

動き回れないときに、どこにいてもできることといえば、いいことを思い浮かべることです。楽しいことを想像したり、小さな小さな幸せをたくさん見つけることで幸福を認識するのです。

一番いいのは生きているだけで幸せだと言えることです。でもそれは難易度が高いか、遺伝子レベルで幸福な人にしかできないことです。

幸福と引き換えに寿命を得た人類

現代人は超寿命化しましたが、その分だけ不幸でいる時間も長くなりました。平均寿命が30年だった江戸時代の庶民(※武士の平均寿命は50年以上)はどんなにみじめでも苦しむ時間が少なくて済みました。奴隷でも20年くらい我慢したら寿命が来て老後の心配をする必要がなかったのです。昔は乱雑に生きてもせいぜい30~40年だったので、不幸な人生になったとしてもその苦痛は長続きしなかったのです。

現代では不幸なまま長生きすることは拷問以上に苦しいことです。苦しいまま生きながらえるより拷問されて死ぬことはそれほどつらいことではありません(私の価値観です)。

現代の庶民は長生きし過ぎて昔の人より不幸であると私は思います。配偶者や子どもが病没する確率が低くなり日本では結婚後に恋愛して再婚する権利がありません。実のところ、恋愛の末の結婚は一生物ではありません。それなのに、妥協と忍耐を続けて好きな気持ちが消えても他人同士が同居している不思議な国が日本です。

生物の話

本当なら人間の女性は若い時に多様な遺伝子の子をたくさん残すために複数人の健康な雄の精子が必要です。しかしそれを禁止したのは男性です。

男性は複数人の女性と交配しているのに、女性にだけそれを禁止するのは宇宙の摂理に反するので男が余るという現象が生じます。

動物の本来的な姿は、雌が健康ですぐれた雄の求愛だけを受け入れることです。すぐれた雄ならたくさん子孫を残せます。結婚という形態や一夫一妻、ゴリラのように一夫多妻などといった家族形態は不自然極まりないのです。私たちはチンパンジーと祖先が共通なので、多様な交配型の生き物です。

不健康な雄は遺伝子で劣っているところを隠して雌を騙そうとします。それは知性を伸ばすことです。すぐれていない女性は化粧と話術で雄を騙そうとします。知性は動物としての生存戦略なので、人類の知性の発達は同時に劣等遺伝子をも受け継ぐことに繋がったと私は思います。天才に心身の障害を抱えている人が多いのは、劣等遺伝子を持った先祖が知性で子孫を残そうと奮闘した結果かもしれません。知性の進化の裏にはこうした不可避な弊害もあると思います。

幸せに慣れると消える幸福感

人は学習能力が高く、いつかは環境に慣れてしまいます。結婚したばかりの幸福感や恋愛感情が消えるのは慣れが原因です。新しいスキルを身に付けた喜びが消えるのも慣れが原因なのです。例えば子どもが次第におもちゃに興味をなくしてしまうのは学習によるものです。大人も子どもと同じで目標を達成してしまうと達成感という楽しさが消えてしまいます。

  • 友達関係への慣れ→消える友情
  • 恋人関係への慣れ→消える恋心
  • 結婚関係への慣れ→消える愛情
  • 仕事への慣れ→消える労働意欲
  • 学校への慣れ→消える勉学意欲
  • 娯楽への慣れ→見飽きる、感動が薄れる
  • 旅行への慣れ→おのぼりさんにならなくなる
  • 趣味への慣れ→楽しさが薄れる

反対に人は悪いことにも慣れてしまう能力もあります。それが悪習慣の常態化です。そこから脱出しようとしなくなるデメリットがありますが、その人にとっては慣れることでダメージを受けないようにしているのです。

楽しさや幸福感、喜びは一時的な感情です。

有難みを感じる条件

では逆に、あることへの有難みを感じる状況を考えてみましょう。ない時のつらさを思えばあるときは本当に有難いと思えるものをリストアップしました。これらは現代人にとっては無いと困るものばかりです。もしも何かひとつでも欠けているときに、あることを思うと幸せだな、有難いなと思うことでしょう。

  • 戦争と平和
  • 飢えと飽食
  • 病気と健康
  • 人間関係の多少や質
  • 住む所の有無
  • テクノロジーの有無
  • 移動手段の有無
  • 人権の有無
  • お金の有無

あるときは有難みを感じないのに、無いときは有難みを感じるものばかりです。

認識による幸福

感覚としての幸福感を得るにはそれとは正反対の「ない状態」を経験しないと感じられません。休日の幸福感は勉強や仕事という苦役があってこそ感じられるものです。健康の幸福感は病からの回復を感覚として感じたときにわかるものです。安全な水が飲める幸福感は、上水道がない環境にいたときと比べて初めて感じられるものです。人から与えられる愛情も愛が無い状態を経験して与えられることで有難く思うものなのです。

いずれの幸福感も一時的なものです。幸福な環境が続けばいつしかそれが当たり前となり幸福感が消えてしまいます。しかしそのフラットな状態は決して不幸ではありません。

私にはいくつもの幸福があると認識するだけで十分です。

ただし、中程度のフラットな感情が続くとだんだんその状況に飽きて来ます。つまり何か楽しいことや嬉しいことが欲しくなってしまうのです。そうなるともう赤ちゃんでも不機嫌になってしまいます。しかし手に入る楽しいことは有料かつ時間的にも有限です。

ほどほどが一番

人が幸せになりたい、楽しくなりたい、嬉しくなりたいという欲望にはきりがありません。しかもテレビやネットで見せつけられる他者の楽しい瞬間は自分にも手に入らないものばかりです。欲しいと思っているうちに歳をとっていき、ほとんどの人は贅沢をあきらめるしかなくなるのです。

生きているだけで幸福

高齢の人から話を聴くと、生きていきたい場所に行けるだけで幸せだとおっしゃいます。これが幸福の真実だと私は思います。病気にはなっても行きたい場所に行けないほど重病ではないことが高齢者の幸せです。結局のところ、人間にとってはささやかなことが幸せなのです。

先ほども述べた通りに、酸素が据えて、手足がそこそこよく動いて、頭もそこそこ働いていること。そのことを喜べることが幸せの秘密です。そこには身体的な苦しみと比較したうえでの幸福があります。つまりボケるよりかはボケていない今が幸せだ。寝た切りにならずに動けることが幸せだ。などといった比較です。

それ以上の物事を得ようとすると感情が揺らいでしまうことは覚悟するしかありません。何かを獲得しようとすると不快感を経験することもあるのです。その最たるものがお金、つまり社会的成功としての報酬です。お金のない人がお金を稼ぐことは99%の人が楽しくないはずです。ほとんどの人は1%の人になれませんから、精神的な苦痛を覚悟して稼ぐ必要があるでしょう。

苦痛と引き換えに夢を追うことと、あきらめること、どの道を選択するかは人それぞれです。

白色ワセリン(日本薬局方)とVaseline(ユニリーバ社)の違い

白色ワセリン ひび、アカギレの治療におすすめ!ヴァセリンより安い!

現在私は日本薬局方白色ワセリンを愛用しています。2021年より以前はヴァセリンを使っておりましたが価格が高いことが気が仮でした。そこで代用品を探していたところ、健栄製薬株式会社の日本薬局方白色ワセリンのほうが安いことに気が付きました。私が初めてヴァセリンを購入したのは2015年頃でした。その頃はかかとのひび割れに悩んでいてヴァセリンを愛用しておりました。

ヴァセリンの価格は2022年の時点で1gあたりアマゾンで2.7円です。200gでは555円で売ってます。それに対し、日本薬局方のワセリンは500gでアマゾンで717円です。1gあたり1.4円です。

日本薬局方白色ワセリンのパッケージにも「手足のヒビ、アカギレに」と書いてあります。

ワセリンとは

ワセリン(英語: Vaseline)とは石油を精製して作られた油分のことです。純度が高く、化粧品の保湿剤や軟膏などの医薬品に用いられています。肌にワセリンを塗ると水分の蒸発を抑えて皮膚を保湿することができます。

医療用には高純度のワセリンが用いられます。白色ワセリンは純度がサンホワイト、プロペトの次に高いです。

参考: ワセリン – Wikipedia

vaselineの歴史

1859年、以前はマッコウクジラの油から灯油を浄化した化学者のロバート・チーズブローが、ペンシルベニア州タイタスビルの油田を訪れ、この新しい燃料からどのような新しい材料が作られるかを調査しました。そこで彼は、石油掘削装置のポンプから定期的に除去しなければならないロッドワックスと呼ばれる残留物を知りました。石油労働者は、切り傷や火傷を癒すためにこの物質を使用していました。チーズブローはロッドワックスのサンプルをブルックリンに持ち帰り、使用可能なワセリンを抽出し、彼がヴァセリンと呼ぶ医薬品の製造を開始しました。

ワセリンという名前への最初の既知の言及は、1872年の彼の米国特許(米国特許127,568)でのChesebroughによるものでした。

引用: vaseline – Wikipedia(en)

Vaseline(ユニリーバ社)と白色ワセリン(日本薬局方)の違い

Vasseline darmatologist-recommended white petrolatum

じゃあ、このVaselineと白色ワセリンは何が違うのでしょうか?Vaselineはアメリカのユニリーバ社という企業の商品です。円安になると価格が上るかもしれませんが、2022年6月の時点で200g入りパッケージの価格に変化は見られません。Vaselineは化粧品に分類されます。一方で日本薬局方のワセリンは医薬品のうち一般用医薬品に該当しますからドラックストアや販売権のあるオンラインストアでしか入手できません。

また、ワセリンにはミネラルオイル芳香族炭化水素類(MOAH)という発がん性物質が最大9%含まれているという発表が2015年にありました(現在どうなってるかは不明です)。しかしワセリン自体はニベアなどあらゆる保湿クリームに使われています。軟膏や保湿剤などの化粧品は生活必需品なのでワセリン自体を避けることは難しいかと思います。

  • Vaselline(商品名)・・・化粧品。1870年から商品として存在。90か国以上で販売されている。
  • 日本薬局方白色ワセリン(商品名)・・・一般医薬品。日本でのみ販売されている。
  • ワセリン・・・物質の名前(ドイツ語読み)
  • ヴァセリン・・・物質の名前(英語読み)、最初に開発した人の言語での読み方。
  • 白色ワセリン・・・純度による物質の名前

使い方

皮膚が乾燥していたりひび割れているところに薄く延ばして使います。ひじやかかと、手の甲などに塗って使います。唇など体内に入るところには使わないほうがよいと思います。また、靴擦れ予防やスポーツの時に皮膚と服が摩擦する場所に塗ったりします。効果的なのは寝る前にかかとやひじに塗っておくことです。

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ワセリンを安全にお使いいただくために、使用上の注意書きをよく読みましょう。

Fill your shoes の意味

fill your shoes English meaning

英会話の勉強をしていた時に”fill your shoes“というフレーズを目にしました。テキストには「しっかりフォローする、穴を埋める」という意味と書いてありました。オックスフォードオンライン辞書で調べると「誰かの業務や任務を引き継ぎそれらを十分に果たす」と説明しています。

このフレーズが載っていたのはNHKラジオビジネス英語2022年6月号の23ページです。病気で入院した部下を励ますために上司がメールを送ったシチュエーションで「私たちがしっかりフォローします(ので安心してください)」という使い方がなされていました。

fill your shoes

インフォーマルな言い方で「(誰かの)業務や任務を引き継ぎそれらを十分に果たします(オックスフォード辞書)」「(誰かの)仕事を引き継いだり責任を受け入れます(ケンブリッジ辞書)」という意味です。

例文

このフレーズを使って英作文をしてみました。

I will fill your shoes while you have been admitted to the hospital.

私はあなたが病院に入院している間にあなたの仕事を引き継ぎます。

どうでしたか?

念のために「日米口語辞典」で調べてみましたが、その辞書には載っていませんでした。これは慣用句(イディオム)に分類されるようです。

イディオムと熟語の違い

ではイディオムと熟語は何が違うのでしょうか?熟語を英語で言うとidiomです。慣用句を英語で言うとidiomです。

しかし日本ではイディオム(idiom)と熟語(idiom)を別の物として区別している人がいます。さらに慣用句をイディオムと別の物と言ってる人までいます。熟語の中にイディオムが含まれるというのです。あるいは熟語の外にイディオムがあるという人もいます。

また、これらを別々の物と主張している人は英語学者ではありません。もし本当だとしたらどこの英文学者が慣用句と熟語を別のものとして定義したのか示して欲しいものですね。

さて、さらにややこしくなるのがコロケーション(collocation)です。これはイディオムと何が違うのか?定番表現とも訳されます。おまけにコロキアリズム(colloquialism)は口語表現と訳されイディオムとは何が違うのでしょうか。書き言葉には使わないイディオムでしょうか。

英語は日本語よりも複雑でややこしいですね。

参考リンク:英語のイディオム一覧: Wiktionary

ここにイディオムが一覧形式で載ってます。日常で使う英単語に匹敵する数です。一生かかっても覚えきれません。

英検準1級を受験した体験記 2022年度第一回実用英語技能検定

英検準1級-受験体験記

英検準1級(実用英語技能検定、第一回2022年6月15日実施分)を受験しました。英検を受験したのは2級以来で10年以上が経っていました。4年前から英会話教室に通い始め英単語を独学していました。その成果を確かめるために英検を受験しました。

英検準1級

試験時間はリーディングは午前10時から11時30分まで、11時32分から12時までリスニングの試験がありました。集合時間は9時20分までに集まっていなければいけません。持ち物は写真を貼った受験票と学生証や運転免許証などの身分証明書、HBの鉛筆と消しゴムそして時計です。

試験会場では本人確認とスマートフォンの電源が切れたかどうかの確認がありました。試験監督は20代の若い男女の2人組でした。

試験場所は大学の教室でした。

時間配分

リーディング60分、ライティング30分、リスニング30分です。リーディングに集中し過ぎてライティングの時間が少ないと後で困ります。時間配分は受験者の受験技術なのでリーディングが分からなくても残り時間30分を切ればライティングに行くべきでした。

語彙問題

英検準1級の語彙問題は比較的容易なので旺文社のパス単やでる単、ジャパンタイムズ社の英単語集をやっておけば十分でした。語彙問題集を買う必要はありません。熟語は学んだところが出ることは滅多に無いので対策する必要性は感じません。

私の回答は25問中21問正解でした(本来ならできるミス1問)。

単語問題

ここはパス単を何度も繰り返していれば簡単に回答することができます。難しかったのは問い13の「戦争が一年間続いたが、どちらの側も勝つことができなかった」というくだりです。prevailの意味は「広がる」のほかに「勝つ」「説き伏せる」という意味がありました。ここで「勝つ」が出てこないと正解するのは無理かと思います。

問い21では「ポールが体重を落とすことを手伝うために、彼の医者は彼の食事を見直すことをすすめた」という話です。dietが食事を意味することがわかればmodifyが正解であることがわかります。しかし紛らわしいのがexclaimです。これは「大声でどなる」というほかに「強く主張する」という意味があります。もしもdietを日本のダイエットと勘違いしてしまえばexclaimという回答もあり得ます。回答者を騙すつもりで作られた意地悪な問題です。

熟語問題

英熟語は私も学んでおりましたが、本番になるとすっかり忘却しておりました。冷静になってみれば英単語集で見た事あるものばかりでした。回答で誤ったのは熟語だけでした。turn over(熟考する)やfall for(騙される)もどこかで見た事あるんですね。でも使わない。時間が経過すると忘れているんです。betting onはギャンブル用語なのでわかりましたし、mapped outもお役所言葉なのでわかりました。

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ちなみに語彙問題の単語集はパス単熟語英検準1級で十分です。足りなければ1級のものをやればよいと思います。時間の無駄になる文単を買う必要性はありません。

空所補充問題

3段落ほどの英文の空所を埋める問題です。特に対策の必要性は感じませんでした。基本的な文法が分かっていれば十分です。文章の内容が理解できれば間違うことはないでしょう。

ただし、英検の問題には見たことも聞いた事も無い専門用語が使われます。

The Peter Principleというタイトルの文章と、Nearsightednessという文章、Honey Fungusという文章がありました。

これらの意味がわかる受験生はほとんどいないと思います。そこで文章の内容からこの専門用語の意味を推測します。これらの特殊な言葉の意味を知る必要はありません。

大問2 The Peter Principle

The Peter Principleでは良い成績を上げて昇進した管理職に求められているスキルが平社員のスキルとは異なり管理職のパフォーマンスが低下することが問題となっていました。

文章の要点は地位が低い社員のうち業績を多く上げた人を管理職に任命すると、その人の管理職としての能力が発揮できない原因について書かれています。その理由は管理職で求められる技能と、役職なしの時に求められるスキルは同じではないからです。この問題の解決法として専門家は管理職にも教育が必要であると主張しています。

大問3 Nearsihtedness

Nearsihtedness(近視)という文章ではスマホやパソコンの画面の見過ぎで生じる症状の原因がブルーライトでは無い事が書かれていました。

その理由として近視はパソコンやスマートフォンが普及する以前から社会問題となっており、学校や職場など室内で過ごす時間が長くなったことが原因だと述べています。そして視力を健全に保つためには毎日3時間は屋外の光を浴びて過ごすことが必要だと言ってます。最後に屋外で日光浴ができない人のための代替手法が期待されています。

大問4 Honey Fungus

Honey Fungusという文章では樹木を枯らせるこの菌の生態と、対応方法について書かれていました。

私の回答は9問中8問正解でした。

この菌は普段は隠れた場所に生息しています。秋の一時期だけ見ることができます。樹木に寄生しており根などから栄養を吸い取って木を枯らせてしまいます。

この菌を根絶することは困難で途方も無い時間と費用がかかります。それよりも菌により枯れた樹木を土壌改良剤として再利用することを専門家は提案しています。

長文読解問題

長文についても単語集で覚えた単語が分かれば難なくわかる内容になっていました。ただし、難解なテーマの文章が一つは入っているので熟読しなければ理解できない内容になっていました。ここで躓くとライティング時間が減ってしまいます。英文を理解していなくても選択肢を選ぶというテクニックが必要です。

大問5 Intentional Communities

Intentional Communitiesという文章は本当に意味がわかりませんでした。intentionalは故意の、意図的な、という意味があります。この意図的なコミュニティーが存続できるのはイスラエルやイタリアなどの「ごく一部のコミュニティーに限られる」ということです。コミュニティーがダメになる原因は真面目に働いているごく一部の人と、怠けている人が生じ、コミュニティーを率いている真面目な人たちがいなくなると崩壊していくといったことが言いたかったのだと思います。コミュニティーを存続するためには意図的な後継者の育成が必要で成功している意図的なコミュニティーは遊びを通じた形で人材を育成しているとのことでした。

私はこの問題は3/3の正解率でした。

大問6 The British in India

The British in Indiaという問題ではイギリスの東インド会社がインド人から搾取した様子が書かれていました。1600年に設立された東インド会社はインド人の私兵を抱えてインドの国王から豊かな地域を奪いました。そして英国式の教育を施しインドを植民地化していきました。その東インド会社は、自身が雇っている私兵(※英国の思想に洗脳されている)が反乱を起こして王国を滅ぼしたことによる影響で会社が今から100年前に終了することになりました。

ある専門家は300年も続いたこの会社を資本主義のパイオニア(先駆け)だと評価しました。つまりこの会社が政治の力を利用してビジネスの目的を果たす手段としたのです。

私はこのの問題は3/4の正答率でした。設問40ではインド人の結束を分裂させたことについてイギリスへの反抗を抑制しようというものがありました。しかし回答を誤らせるための選択肢があり、学校でインドと英国文化の両方の意識を持たせる教育をするよう努めたという選択肢が罠でした。

また、この大問6については現代の社会問題に通じるものがあり、国家を二分させる英国など列強の手法は国家分裂だけでなく同族内での戦争を招いています。その例が、韓国と北朝鮮や、インドとパキスタン、あるいはアフリカ諸国、ベトナム、ミャンマー、そして諸国の政治対立(日本の与党と野党)です。

読解問題に参考書は不要でした

私はかつて旺文社の英検準1級のリーディング問題集を2周くらいやりました。しかしそのことが得点に繋がったとは思いません。日頃から英文を見る習慣があればリーディングの問題集は必要ないと思います。NHKの高校生向けの英語のラジオ講座やラジオビジネス英語という講座だけでも十分だと思います。リーディングは文法の知識よりも、どれだけ英単語を知っているかが重要なので、読解の問題集をやるくらいなら単語集を暗記したほうがよいと思います。

thatなど関係代名詞を知っておく

あえて何か学ぶことがあるとすれば、それは長い文章がどのような文法で構成されているか知ることです。特に関係代名詞thatが何を指しているのかわかれば英検の難易度はぐっと下がると思います。

ライティング問題

Should people’s salaries be based on their job performance?(能力主義の給料にすべきか)という議題が与えられ、2つのポイントをもとに回答に書くよう指示が与えられました。文の構造は導入、主文、結論の3構成にして120-150の単語を使えと書かれていました。そのポイントとは年齢、企業の利益、モチベーション、スキルから2つを選べというものです。

残念ながら私はライティングを書く時間が20分ほどしかありませんでした。導入文を2行、メインボディーを6行ほど書いて、結論を書こうとしたところ、時間切れとなりました。

賛成の場合

ここで賛成とする場合は、働いた結果が公正に反映されるメリットについて述べるとよいでしょう。報酬が得られるとわければ労働意欲が高まります。企業も無駄な人件費を多く払わなくて良いので経営がしやすいというメリットがあると書けば合格かと思います。容易に解雇でき人材の流動性が高まるメリットもあります。しかしこういったことを英語で書こうとすると難しいかもしれません。

反対の場合

ここで反対とする場合は、仕事で優れた成果を出せるのはごく一部、5%くらいの人だということを述べればよいでしょう。そして働きすぎることや、上位になれない大多数の人たちのモチベーションが下がる問題、結果としてごく一部の人だけがバカみたいに働いて、その他大勢は怠けるので業績が向上する見込みがわからないことなどを述べればよいでしょう。また、人生の目的は会社で働くことではないので成果主義で喜ぶのはごく一部の人だということです。

リスニング問題

今回の英検準1級のリスニング問題はとても難しかったです。私の正答率は半分以下でした。まず英国人女性が訛りながら話しているので声がこもって聴き取れませんでした。そしてアメリカ風の若い女の子ぶりっこした女性がブリブリしながら話しているのでやはり声がこもって全然聴き取れませんでした。

まずリスニングの確認用の音声と、実際の音声の品質が違い過ぎて戸惑いました。確認用の音声は非常にクリアな男性が大きな声で話していました。しかし試験用の音声はボリュームが2段階ほど小さくなっており、私はスピーカーから15メートル離れていたので音が届くまでに鉛筆でこする音などのノイズがたくさん入りまるで聴き取れませんでした。試験監督が再生機器の操作を間違えて、問題の後半から試験がはじまりました。そしてまた別の問題が放送され、やっと1問目から放送された時には私の集中力が切れてしました。

リスニング問題に使用されていた装置は色が変色しているほど古い機械でした。おそらく20年くらい同じものを使っているのではないかと思う程アナログなラジカセのような装置でした。リスニング試験は窓が開いていたり空調機器が稼働していたり、窓側は環境音や車の音がするなど座っている場所によっては不公平で聴き取れないのでヘッドフォンを配ってほしかったです。

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やはり、リスニング問題のテキストは旺文社の物を買ったほうがよいと思います。私はジャパンタイムズ社の問題集で練習しましたが、的外れな練習問題ばかりで結果を出せませんでした。

反省点

まずは受験地の選定について。受験地は必ずしも指定した場所になるとは限りません。おそらく防疫のために受験会場が分散されているのではないかと疑問に思いました。なぜなら私が受験した場所は大学の小さな教室で一人座るごとに一席開けていたので8人ほどの8列で64人ほどしかいなかった気がします。しかもこの会場で行われていたのは英検準1級と準2級だけです。ですから合計130人ほどしかこの会場に受験生がいなかったことになります。

送迎禁止

受験生のほとんどが車で保護者に送ってもらい、そのまま3時間駐車場で親に待っててもらっていたようです。電車やバスで来ている受験生はほぼ皆無で10人もいなかったと思います。しかし受験票には公共交通機関を利用して来るように書かれていて送迎で渋滞が発生した場合に警察を呼ぶかもしれないようなことが暗に書かれていました。

そして受験場所にトイレがありませんでした。ほとんどの受験生はトイレに行ってません。試験直前に試験監督に促されてトイレに行ったのは10%くらいの人でした(どこにあるのか謎でした)。試験後に部屋から出て1階に降りるとトイレは設置してありませんでした(他の場所に行けないように封鎖されていました)。

文法力

文章問題について。私は今まで英語の文章自体をひとつずつ文法で分析するように見ていなかったので英文法を学んだことをしばらく忘れていました。このように構文のこともすっかり忘れておりましたが読解問題への影響はほとんどありませんでした。しかしながら文法を忘れていたことを自覚させられることがありました。

それは英検が用意したトレーニングアプリです。そこにshould have doneという選択肢が出て来たり、in thatという謎の熟語(接続詞として)が出て来て首をかしげてしまいました。英文法のスキルは英検とは直接関係ありませんが、出来ないと悔しい気持ちになりました。

英作文力

英作文は普段からgoogle翻訳や検索に手伝ってもらって書いているので自力で書く能力がありません。簡単な作文ならできるのですが、こうして今書いているようなことを英語でそのまま書くスキルは私には備わっていません。普段から文章を見て音声を聴く練習しかしてこなかったので、時間内に英作文を書くスキルが無かったのです。

英作文が書けるということは英会話をする能力に等しいと私は思います。普段から英語での話し相手がいないので英語で情報を発信することすらありません。

この問題を解決するには英作文を書くしかありません。NHKラジオビジネス英語の最後の課題に挑戦するか、インスタグラムなどで頻繁に投稿するか、毎日とまではいかなくても週1~2回は英作文を書く必要がありそうです。

リスニング力

実のところ、私はリスニング力に自信があります。英会話教室に行って5年になろうとしています。英語の先生の言っている事は理解できます。しかし、試験用の問題となると別のスキルが必要なようです。例えばニュースを聴くにはニュースのリスニングに必要なスキル、音楽を聴く、ドラマを観る、家庭での会話、職場での会話、街での会話、事務手続きの会話にそれぞれ別のリスニングスキルが必要なのです。

聞き耳を立てなくてもわかるようになりたいですね!

受験年齢

残念ながら、英検準1級の受験生のほとんどが20代前半までのお子様だけでした。それより年上の人は私を含めて2人しかいませんでした。サラリーマンはTOEICに興味があるみたいですね。私はその場にふさわしくないみたいでちょっと恥ずかしかったです。

友達と友情について

friends

友達について悩みは尽きない。友達は多いほうがいいか、少ないほうがいいか。頻繁に会うほうがいいか、メールやSNSでメッセージを送るほうがいいか。友人がいれば孤独ではなくなるのか。親友とはどういうものなのだろうか。

友情について

五木寛之の「孤独の力」という本によると「友情という孤独」という見出しのエッセイがあった。そこには五木先生には親友も友達もたくさんいたが、年に一回言葉を交わすか、何年に一回どこかで会うか、できるだけ親密にならないようにしてきたと書かれていた。

一般的に友達付き合いというと、学校かどこかで毎日のように出会う生活があって、別れた後は年に一回会い、その後は年賀状やオンラインでのやりとりが続いた後に音信不通になっていくものなのだろう。

五木先生は友達と毎日顔を突き合わせてべったり暮らすことはしないとおっしゃっている。そこには「人間は結局、最終的に独りなのだろいう気持ちがずっとあったからだろう」と書かれていた。

友人より会う頻度の多い知り合い

実際のところ、小学校や中学校や高校などの学校でできた友人は成人後に会うことは滅多にない。同じ町内に住んでいれば偶然会うこともあるだろうが、基本的にそれは稀なことだと思う。大人になってからは友人よりも職場にいる仲間や上司のほうが会う頻度が多く、あるいはどこかの集まりに定期的に長年参加しつづけていれば友人よりも会う頻度が多くなる。

友だちよりも会う頻度が高い人は友人ではないのだろうか?少なくとも私たち日本人は何度も食卓を囲んだ仕事仲間でさえ友人では無いと決めつける。そして職場を去る時には親しかった人たちと二度と会わない決心をする。

友人よりも会う頻度が多かった人のことは、友人ではないのだろうか?友より自分のことを知ってくれているその人たちはあなたにとって何なのだろうか?こんな疑問が湧いてきた。

友情とは

友情とは何か。一生ものの絆と考えるのは甘い。五木先生は関係が濃密になり過ぎると裏切られることがあることを指摘しておられた。友情が薄ければ裏切られても捨てられても傷は浅くて済む。

若い頃は友情は死ぬまで続くかのように思われる。だが現実はそうではない。

かつての友人とは人生を共にするわけでもなく、生活も住まいも離れている。たまに会うか、旅行に行くような仲であればまだ幸いだろう。しかし友人や自分の人生がいつ転落して笑えない状況になるか予想がつかない。

貧しくても親しく付き合ってくれるような友人がいればその友こそが宝といえるだろう。現実の日本ではそのようなことはどれくらいの頻度であるといえるか確かなことはわからない。

では一体友情とは、友とは何なのか?

友人は孤独を癒してくれない

世の中を見渡すわけではないが、世間知らずな私にもこれだけはわかる。友達は物理的な孤独や寂しさを永遠に紛らわせてはくれないと。成人後に小中学校の友達と会うことなどほとんどの人はないだろう。高校の友人とは会っても年に何回か、あるいは数年に一度、数十年後ということになるだろう。

要するに成人後の日々の生活に友達が毎日自分の傍にいるわけではない。どこかに行けば友達に会えるという生活は無くなるのだ。友達に会うためにはお金がたくさんいるのでそう何度も会えるわけではない。だから、日常生活で感じる孤独や寂しさを友達が癒してくれることは滅多に無いのだ。

それでもいないよりはいてくれたほうが有難い。

それが友達なのだろう。

定住型の友情は達成困難

友人と会う頻度を高めるためには、お互いが生涯同じ地域に住んでいることが前提となる。テレビで西欧の街歩きを取材する番組では昔から続いている友情は同じ村に住んでいる人と決まっている。歩いて行ける距離だ。イタリアやイギリスでは定住型の友情を描くドラマやドキュメンタリーがある。しかしこれらの国々でさえ、地域に生涯留まれるのはそこで職を得られた人に限る。

それは友情か?

有名人やお金や美貌、何らかのスキルを持って成功している人のSNSにはたくさんフォロワーが付いている。彼らの多くは友達になる機会を狙っていて優しい言葉を投げかけ反対派を激しく攻撃する。それは本当に親しみからくるフレンドリーな気持ちなのだろうか?そうではないだろう。彼らは親しくなれる隙を狙っているのである。日常では家族や友人のことを心配しないくせに有名人がちょっと鼻水を垂れただけで心配のコメントが大量に押し寄せるのだ。力のある者に胡麻を擦るのは動物としての本能であり、彼らは皆有力者の腰巾着になりたいのだ。

だとすれば、その人が有名になってからできた友人は本当に友達なのだろうか?

上下関係のある友達

また、同性の友達同士が二人一組で会話をしている様子に偶然遭遇することがある。聞き耳を立ててみると二人の間には上下関係があり、身分の上の友人が身分の下の友人に一方的に愚痴を言っているだけである。そんな光景にこれまで何度も遭遇した。それは本当に親しい友人関係といえるのだろうか?どう見ても親分と子分の関係にしか見えない。だが、本人たちは友達だと信じているのだろう。

あるいは数人組の友人がいたとして、中心にいるのは特定の人だけというのもある。それもまた主従関係ができているのだろう。中心人物との二者関係を結んでいる子分が何人かいるだけなのだ。それは果たして友人と言えるのだろうか?しかし日本では友達ということになっている。子分同士の嫉妬の火花が散っていたとしても。確かに主従関係がありその群れが非日常で続いているのであれば、単なる群れだとしても日本語では友達ということになるのだろう。もしかしたら単なる動物の群れと友情の区別がついていない人が多いのかもしれない。

国で異なる友達の定義

先程日本人同士で上下関係のある友人のことを述べたが、海外では友達の定義が異なる。

韓国のチング

韓国では対等に友(チング)として話せるのは同じ歳に生まれた同性同士だけだと言う。1つでも歳が離れていれば先輩後輩として主従関係が生じる。先輩には親しい間柄でも必ず敬語を使わないといけない。そんな韓国人にとって友達とは同じ歳の人だけなのだろうかと疑問に思う。そもそも友だちという概念がこれまでなかったのかもしれない。

アメリカのフレンド

一方でアメリカの友(フレンド)は幅広い。ほとんど会ったことの無い人でも相談関係になればフレンドと言う。日本人が言う友達はアメリカ英語でベストフレンドに相当する。私のアメリカ人の知り合いには何人もベストフレンドがいる。

中国の朋友(ポンヨウ)

中国でもまた友達の定義が微妙に異なるようだ。友達というと、ずけずけと物を言ったり遠慮をしない関係のことを指す。中国人の物言いは日本人がきついと感じるくらいはっきりしている。日本人では友達に対しても気遣いや遠慮があったりして距離がある場合がほとんどだ。本当に貴重な生涯の友のことを挚友(チーヨウ)と言うらしい。