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やる気を出す方法

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やる気を出す方法について。勉強や仕事、スポーツなどを続けていると下がるモチベーションの向上と継続するための技術。やる気がなくてもすることが究極の答えです。人間は物事の繰り返しに飽きるようにできています。似たような作業を続けると、成果が出ないと脳が錯覚してやる気がなくなるようにできています。

似たようなスケジュールの毎日を過ごしていると、最初は楽しかったことでも何とも思わなくなります。それを心理学では「知覚の恒常性」といって類似の刺激に対する反応が低下する現象が起きているのです。毎日同じ時間に起床して同じ行動を繰り返すと何とも思わなくなる現象は一般的な言葉で「慣れ」とも言います。

やる気の正体

やる気とは一体何なのでしょうか。人はどうしてやる気を求めてやまないのでしょうか。

人は「慣れ」が生じると脳が興奮しなくなり中立の感覚になっていきます。それは興奮状態が異常だから正常に戻ろうとしているだけです。「やる気」とは脳の興奮状態のことでありドーパミンなどの報酬系の物質が出ている瞬間的で一時的な現象です。つまり、やる気の正体は結果を期待する気持ちが高まっている精神状態のことです。

やる気は一時的な脳の興奮状態です。

やる気が出る人の正体

「がんばろう」「さあやるぞ」と思う気持ちはよい結果を得られることが事前にわかっているからやる気が起きるのです。やる気満々の人がどのような状況でやる気を発しているか観察してみてください。大抵は「成功確率が高い行動」をする前にやる気を出していると思います。その成功とは、掃除であったり片付けやごみ捨てといった誰でもできる程度のことなのです。

誰でもできることに挑戦している

例えば赤ちゃんは「はいはい」ができるだけで嬉しく感じるので、次に「座る」という動作を覚えて「立ち上がる」ことを学び、「自分の足で歩く」ようになります。この行動は誰にでもできることなので苦に思うことがなく得るものは喜びだけです。

やる気が出ない人の正体

ではやる気が出ない人を観察してみてください。自分のことでも構いません。その人が挑戦しようとしていることは「敷居が高い」「難易度が高い」「やり方がわからない」「最適解がわからない」「労力を多く要する」など達成困難なことではないでしょうか?

疲労していてやる気が出ない

疲労や睡眠不足で朝から疲れている時にやる気を出すことは不可能です。疲労がある場合は、じっくり休んで体力を回復しましょう。なぜなら疲れた状態では姿勢を維持することが困難だからです。他に考えることがある場合も頭を切り替えられないなら何をやっても上の空です。

この状態でやる気を出すところか、実行しても効果が出ないのでまずは体の回復を優先させましょう。

他にやることがある

急な予定や人と会う約束がある場合、勉強などの自分だけでする仕事にやる気を出すことは困難です。なぜなら予定について考えたり、人をもてなす方法や服装などのことについて考える必要があります。脳は一つの事しか一度に考えられないようにできています。

単に人と会って会食したり遊びに行くというイベントがあるだけでも段取りを考えなければいけません。待ち合わせの時間や店舗の予約、持って行く物や贈り物について考えること、その場に適した服装や会話のネタ探し。終わった後の報告。人に会うことを考えるだけで一日、あるいは一週間、重要なイベントでは一か月以上経ってしまいます。

このようなイベントがある場合「自宅でがんばって英語の勉強をしよう!」などとは思えなくなるはずです。

習い事が「塾」「ピアノ」「サッカー」「野球」などとたくさんある場合も同じです。習い事をしながら東大受験のような複数教科の勉強に専念することはほぼ不可能です。なぜなら「習い事を極めるために必要な時間は教科の学習時間に匹敵するからです」。スポーツを学ぶにしても身体や栄養の知識といった読書系の学習時間がたくさん必要になります。プロ級のレベルで音楽を学ぶ場合は練習時間がたくさん必要なので東大に入ることは無理です。

習い事にかける時間を気晴らしの趣味時間として過ごすかプロを目指すかどうかによって時間配分が違ってきます。しかも本気になればなるほど勉強と習い事(趣味)の両立は不可能です。

確かに集中力や継続力を学ぶためには習い事も適度にあったほうがよいでしょう。しかしそれも度をすぎると本来の勉強に身が入らなくなってしまいます。

幼い頃の多趣味が功を奏するのは学者や経営者のようなゆとりのある職業だけです。皆勤の労働者になろうと思ったらスポーツ以外の趣味はやめたほうがよいと思います。

他に優先して考えることがあるなら、そちらの仕事をまず片付けましょう。

不適切な先生と教材

あるいは教材や先生が不適切なため学習結果が出ないときもあります。先生のレベルが低いとスキルの向上は望めません。先生のレベルが高くても教材や教え方が悪ければ向上は望めません。こうした不適切な学習内容を長く続けているとやる気そのものが減ってしまいます。

難易度が高い

または挑戦している内容の難易度が高い場合、報酬に釣られて夢を見ているような異常に強い動機が必要となってきます。周りから見たら実現不可能なことに挑戦している場合、夢を見つづけないとモチベーションの維持が困難になってきます。

例えば、競争率の高い仕事への就職や進学を目指す場合がそれに当たります。

目標への難易度が高い場合、到達までの手順は複雑になってきます。

また、難しい目標に挑戦するときは費用がかかることがほとんどです。

ダイエットとやる気

例えば太っている人が短期間で痩せようとすると「栄養に関する知識」が必ず必要となります。どのくらい水分を取って何を食べて、何を食べないようにすればよいのか確たる情報がありません。広告は人に物を買わせるために嘘をつくので信用できません。身近な人から痩せた話を聞くことが一番信頼できる情報です。ですが10kg痩せたというお知り合い自体が珍しい存在です。その最適解の情報にたどり着くために運命的要素を必要とするのでダイエットが困難になるのです。

信頼できる情報をある程度集めたら「私にもできるかも」という期待が高まりやる気が出るのです。

参考までに、減量するために運動は必要ありません。食事の量を減らすだけです。

やる気を出す方法

これらのモチベーションの仕組みがわかったところでやる気を出すにはどうすればよいのでしょうか。その方法は挑戦したい内容の難易度によって異なります。簡単なことについてやる気を出すのと、難しいことについてやる気を出すのとでは手順が違います。

やる準備をする

何をするにしてもまず準備です。したいことに対して適した服装に着替えます。その次に、行動する場所の前まで行きます。掃除なら、掃除機がある場所。皿洗いならシンクの前。勉強なら机の前。外出なら玄関の前。勉強なら机の前まで行って椅子に座ります。

例えば、勉強しようと何となく思っても、寝転がった状態で本もなければ勉強することはできません。昨夜寝るのが遅かったのに、朝からやる気満々になるのは到底無理な話です。お皿を片付けたいと思うのにキッチンにいなければ片付けることもできません。

要はやる気を出す前に準備が必要です。

やると決意する

決意は気合を入れるという手順です。時代劇で出陣前に気合を入れる「えい、えい、おー!」という声がけそのものです。まずは服を着替えてウォーミングアップしてから、作業をする場所まで行って、やる直前に「さあやるぞ」と決めるのです。

やってみる

準備と決意ができればあとはやるだけです。やる直前まで労力をかけたのだから、ここでやめるのはもったいないという心理が働きます。1歩踏み出すと2歩目の動作が簡単です。それは刺激が加わることによって身体が自然に反応するからです。

おっくうに思えること、嫌に思えること、事前に考えすぎて疲れてしまうようなことでも、実際にやってみると、やる前に考えていたことを考える必然性がなくなるので行動できるのです。

やる気はやってからも出る

みなさんの多くはやる気はやる前に出すものと思っていることでしょう。なぜなら行動する前に動機が必要だからです。ですが、やる気というものは実際に行動してからも生じてきます。それは手ごたえや難易度が適正である場合「やれる」という自信がついてくるからです。

目標を小さく分ける

あまりに遠い目標の場合、スモールステップに目標を分けたほうがよいでしょう。先ほども説明したとおり、赤ちゃんは実に小さな手順を踏んで身体を自由に使うことを学習します。

数学

まずは「物の数を数える」ことを学びます。そして「物を合わせたり抜いたりした数を数える」を学びます。これが数学の第一歩で誰もが幼児期に親から習うことです。物と個数という概念を学んだ次にそれを文字で表すことを学びます。

こうした小さな手順の積み重ねが数学の学び方です。いきなり難しいことを教えられても凡人に理解できるはずがありません。難しいと思うのは、どこかで何かを学び忘れているからです。

また、数学には文系のスキルも必要で母国語の理解力も欠かせません。野生の鶴や亀を見たことがない人がほとんどなのに、つるかめ算などと教えられても理解できません。

語学

外国語を話したければまずは発音と文字からです。そして平易な単語をいくつか覚えてから、文を繋げることを学ぶのです。しかし日本の教育では文法から学ぶので単語を覚えられない仕組みになっています。何はともあれ語学ではまずは簡単な単語と簡単な言い方を学ぶことがスモールステップに相当する手順といえましょう。

学問

何かの分野を学び始めるときは入門書や偉人伝をいくつか読むという作業がスモールステップに相当します。古代から現代までその学問がどのように発展してきたかわかると学びやすくなります。そして関連する分野の入門書も読んで、それから専門書を読み始めます。

哲学

また、これらの学問の基礎となっているのがギリシャ哲学です。古代の思想を学んでいないと数学も外国語、他の学問分野の必然性を理解することができません。

私たちは日本人でありながらもギリシャからはじまる自然科学の恩恵を受けています。なので、そのルーツたる古代の自然科学を学ぶことは世界の人たちと共に生きていくうえで最低限のマナーといえましょう。

音楽

楽器演奏や声楽などの音楽でやる気を出すには努力だけではどうにもなりません。これらのジャンルは幼児期から歌を歌ったり楽器を演奏している必要があります。後からはじめてもデビューするのは老人相手のコンサートなどのボランティアでの舞台しかありません。

残念ながら、ピアノやバイオリンを小学生から始めても著名なバイオリニストにはなれません。

管楽器はライバルたちも大きくなってからはじめているので成功するチャンスはまだ大きいです。

音楽の場合、最初にその楽器をはじめた人の年齢や、どこで活躍したいかという目標次第で夢が叶う確率が大きく変わります。

やる気を出す前に、成功の可能性を調べたほうがよいでしょう。目標に対する成功確率が大きければ大きいほどやる気は出ると思います。例えば自宅で音楽の先生をするという目標は、自宅と防音室があれば誰でも可能です。ソリストになりたいという目標は、ライバルたちが最初にその楽器をはじめた年齢よりも早くはじめたほうがお得です。

スポーツ

運動選手も幼児期から体操か玉蹴り、走る遊びを毎日続けていないと、滅多になれるものではないと思います。アマチュア程度ですら小学生の頃から身体を鍛えていないと所属は難しいと思います。特に身体の柔軟性が求められるジャンルでは幼児期の時点で開脚などができていないと競技で勝利することは困難でしょう。

また、スポーツは一人ではできないので所属チームの精神状態が結果に影響します。怒鳴り声だらけのネガティブなクラブで世界レベルの選手の才能を開花させることは無理です。なぜならライバルの監督は選手を褒めまくって最高の状態に導いているからです。

しかし日本国内だけなら、たいていの監督は暴力的に指導しているので努力次第で中の上くらいにはなれると思います。しかしその中でポジティブな著名監督が5チームくらいいたとしたら、その業界で暴力的なチームが上位に来ることは難しいと思います。

所属チームの監督が暴力的か、褒めるタイプか入会前によく調べておきましょう。

また、目標についても趣味程度か、試合に出られる程度、試合に勝つ程度などによって難易度が変わってきます。スポーツの世界では目標は低ければ低いほど簡単に達成可能です。

やる気がでる本

さいごに実際にどうやってやる気を出すか、わかりやすい本を紹介したいと思います。5歳児のくれよんしんかちゃんが教えてくれる小学生でもわかるやる気を出す方法。普段は哲学書を読み漁っている私でも、この本ほどやる気を詳しく説明している本はないと思います。文章がとてもわかりやすくて大人でも納得できる一冊です。

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例えば、やる気は行動してから出るものだとこの本に書かれています。確かにその通りではありますが、そうならないからみなさん苦心しているわけで。人生の確変イベントが起こり浮ついた気持ちで勉強していても身にならないと私は思います。

やる気とは、信じること

私は「やる気とは、信じること」だと思います。自分の意思で何かを信じることほど難しいことはありません。なぜなら、やる気とは、いるかいないか観測できない神様を信じるようなものだからです。努力によってそこそこにはなれても、ネイティブスピーカーになれないのは「やる気」があっても「やり方」が間違っているからです。

つまり、これまでの方法を変えないと発展が望めなくなってきたときに、やる気が萎えるのです。あと一歩の努力でなれるというエジソンの名言もありますが、それは1万回やり直しても、必ずできるというスキルと根拠があってのことです。

数学と哲学のモチベーションの関係

数学やプログラミングといった機械的な仕事はやる気があれば知識と思考だけで達成可能ですが、語学というコミュニケーションの習得には数学と同じ記憶力や思考力といった基礎学力に加えて「聞く力」と「表現する力」が数学的技能に+されます。その分だけ難易度が高いのです。だから数学者は外国語を学ばない人が多いのです。数学者が哲学者になるのは「外国語のようにコミュニケーションをする必要がない」からです。知識をインプットして、獲得した思考方法という道具を使うところまでは哲学も数学も同じです。だから数学者は哲学を好む傾向にあるのです。

聞く力は難易度が高い

日本人の英語のリスニング能力が低いのは、普段からNHKのわかりやすい発音ばかり聞いているからです。英語のリスニングは、あいまいな音がたくさん出て来るので、日本人は普段以上に高い注意力を払わないと聴き取れません。しかしこれは、訓練次第で何とかなると思います。聞く力を鍛えるためには集中力と経験が必要です。

経験の獲得は得難い

人の一生で、人と有意義な談話をする経験はなかなか無いものです。有識者レベルであれば、共通の友人が持っている情報が濃いですが、世の中の人々のほとんどが有効な情報を持っていません。私たち凡人が持っている情報は既にインターネットで流布されているものがほとんどです。

また、他人との関係は、その人と会話すればするほど深くなるとは限りません。意見が違うので友達関係を終わらせるときもやってきます。自分と他者との関係は夫婦関係とそっくりです。夫婦は意見が違っても共通の目標があるので一緒に暮らしています。しかし自分と他人との関係では、他の人はそれぞれに夢があるので仲良くなったとしても一緒に暮らすことはできません。

経験が得難いのは友を得難いことと同義だと私は思います。友人を作るためには自分が何かに挑戦するなどして充実した人生を歩んでいる必要があります。その挑戦が遊びであっても構わないし、闘病でも構わない。

やる気とは、何かを獲得しようとする気持ちそのものです。つまり欲望があってはじめてやる気がでるのです。

努力が楽しくなる方法 継続のコツ

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どうすれば努力を継続することができるのか。楽しく努力する方法について。エジソンの名言から努力のコツについて探ります。発明王エジソンがなぜ努力を継続し続けられたのか。それは努力の本質を見抜いていたからです。ほとんどの人は努力をしてもあきらめます。なぜ普通の人々が努力をあきらめるのかというと、期限に間に合わないからです。あるいは努力する環境が整っていないからです。

努力を継続するコツ

受験のように時間制限のある勉強の場合、環境が結果に大きな影響を与えます。教材と反復学習ができる静かな場所が必要です。そして遊び時間をなくすことが凡人にとって重要です。天才の場合は幼少期より言語または数学のスキルの獲得が早く、凡人のような努力をしなくても能力を身に付けることが可能です。

時間を確保する

平凡な人が優秀な成績を収める場合、どうしても勉強時間を長く取る必要があります。遺伝的に天才に準じた頭脳を持っている場合、勉強時間はその分だけ短くて済みます。なので、努力が報われやすさは遺伝的な要素が影響しています。平凡な人が受験競争をする場合は努力する時間を長くとるしかありません。

あきらめない

遺伝的に知能が高い人はあきらめる必要は無いと思います。繰り返し努力を続けた結果、休んでいる賢い人に追いつくこともあり得るからです。ほとんどの人は成功の直前であきらめてしまいます。あきらめる人がいるおかげで、あきらめなかった1%の人だけが成功できるのです。

継続する

継続は力なりという諺どおり、続けるしかありません。音楽やスポーツなど体格や時間、費用的に限界があって続けられる環境にない場合、最初からあきらめて別の努力を試みたほうが得かもしれません。ほとんどの人はいいことがあるまで努力せずに待ったり祈ったりしています。

「楽しいことがありますように。」「いいことが起きますように。」

この祈ること自体は無駄ではありませんが、祈るだけで何もしないのであれば何もいいことは起きません。

失望しない

努力が実らなかったからといって失望する必要はありません。エジソンは「どんな失敗も新たな一歩となる」と言っています。勤勉であること、頑張ること、常識を守ることで価値ある仕事をやり遂げることができるのです。

引退しない

エジソンは「自分の葬式の日が引退の日だ」と言っています。老年になっても続けられる職業はいくつもあります。大病を患ったくらいで働けなくなることはありません。頭と手足が動く限り、努力を辞める理由はありません。

一つの仕事に集中する

平凡な人は一日の間に何種類もの仕事をこなしています。エジソンは発明することだけに仕事の時間を使いました。そして彼は「決して時計を見るな」と言っています。

失敗から学ぶ

うまくいかなかったことから学びましょう。しかしうまくいかない方法をまた繰り返してはいけません。何通りものやり方を試してみることで1回の成功が掴めます。

考えること

エジソンは「成功しない人がいるとしたら、それは考えること、努力すること、この二つをやらないからではないだろうか」と言っています。

天才と競争してはいけない

ただし、優秀な人であっても幼少より才能を発揮していたエジソンのような人を目指してはいけません。脳の仕組みが違うからです。彼のような天才に対抗できるのは優秀な人が束になることです。凡人に生まれたのであれば、天才になることは不可能です。

平凡かつ優秀な素質のある人が目指せるのはよくて優等生までです。そこから先はどれだけ一つのことに時間を割いて努力し続けるかの勝負の世界です。

ほかの楽しみを捨ててでも一つのことをやり遂げるのであれば、努力する価値はあるかもしれません。しかし努力しても無駄なジャンルで努力することほど無駄なことはありません。

凡人が努力するだけ無駄なジャンルとは、音楽やスポーツ、美や数学、物理学、哲学に関する領域です。凡人が努力してもマエストロにはなれませんし、メッシになれません。これらのジャンルには生来的な身体の要素が大きく関係しています。

数学や哲学に挑戦できるのは天才かそれに匹敵する努力を続けられる人だけです。そこそこ優秀な人は彼らの発見したことを一般の人々にわかりやすく伝える役目を担います。

優秀な人ができることは、天才の発見したものを利用することです。

凡人の私が思うこと

すぐれた人は、行き詰った時にあきらめたり他者に頼るのではなく自分で別の方法を試します。私のような凡人は天才たちが考えたことを本で調べて利用するだけです。またはお金を払ってすぐれた人からアイデアを教えてもらいます。凡人にできることはすぐれた人に頼ることです。

エジソンもまた他人の発明を自分の発明に利用していました。天才ですら他人が開発中の発明を参考にしていたのですから、凡人ならなおさら他者に頼らないとうまくいきそうにありません。

努力と思わない

がんばっていると思うとすぐに限界がきてしまいます。「いつもどおり」と思えば大丈夫。努力は続けるものなので、なるべく中程度の気持ちでやると持続しやすいです。感情的になると続けることは難しくなってきます。また、やってる途中で「これが何のためになる」「何の役に立つ」などと思ってもその思いを深刻に受け止めないことです。努力が苦手な人は自分の考えを尊重してしまいがちなので、重要ではない考えなら、そのまま続けたほうが無難です。

やる気は一時的な気分

誰もが毎朝スッキリした気分で起きて、ベッドの中で「さあ今日も一日楽しもう」「今日も元気でがんばろう」などと思いたいものです。しかし現実にそんな気持ちになれる人は恵まれた一部のひとたちだけです。ほとんどの人は学校や会社組織に隷属させられ自分の意思で仕事を決めて生きることはままなりません。仕事が楽しいならともかく、左遷やシフトに入れてもらえない、などの暴力的な脅しを受けながらの労働は楽しくないものです。また、成功しないリスクのある仕事でやる気を出せるのはトップレベルの人たちです。

ともあれ、やる気などというものは恵まれた人にしか起きません。なので行動の動機をやる気に頼ることは、多くの成功しない人たちにとって価値の低い感情です。

何かを成し遂げたいときは、やる気に頼らず無理のない範囲内で少しずつ行動しましょう。

努力を妨げるものへの対処法

勉強や運動などの努力を挫折させる原因について。私の経験ではそれらの努力を終了させる原因は外部環境にありました。隣の住人や家族の騒音、先生や家族の暴力、先生などによる脅し、狭い住宅。これらを避けることは寮にでも済まない限り不可能です。また、アニメやゲームのような嗜好性の高い娯楽も努力を妨げます。そして、内部環境の問題では疲労などの体調による不快感、考えることによる不安や焦り、苛立ちといった感情もまた集中を妨げます。これらの抵抗不可能に思える障害物をどうしたら乗り越えられるのでしょうか。

騒音

人は騒音の中で冷静になることはできません。音が物理的に脳に影響を及ぼすからです。この問題に対処するには静かな場所に移動することです。あるいは静かな時間帯に努力することです。例えば作家が夜に作業をする理由は騒音によるものです。音は思考をかき消して無能化します。

耳が悪くないのによく大声を出す人は無能であることがほとんどです。その人の頭が空っぽだから大きな声が出せるのです。一方で頭をよく使っている人は大声を出しません。

お祭り騒ぎが好きな人は総じて考えることが嫌いな人たちです。

感情

感情もまた努力を妨げる要因です。怒ったり焦ったり、嫌な気持ちになると努力が続きません。感情を行動の動機にできることもありますが、それは健康的ではありません。確かにイチローのように努力の根底に楽しさではなく不安があるような人でも努力することはできます。ネガティブな感情を努力の動機にするためには、人並み以上の忍耐力が必要です。

怒りもまた努力を継続する動機になり得ます。しかし誰もが理性でわかっているように、それは健全な理由ではありません。怒りによる努力は常に罪悪感が生じるので、不健康になるリスクがあります。

喜びや楽しさは努力を継続する動機になります。しかしこれらの感情は一時的な快楽なので時間とともに減ってしまいます。

挫折感は行動エネルギーを減らす感情です。考え直してあきらめるか、続けるかの選択に迫られるので心のエネルギーを消耗する感情です。

努力を継続するためには感情に頼らないで行動することが最もエネルギーを節約できると思います。

忍耐

努力の継続は忍耐しかありません。住宅環境や人間関係などの運命的な要素を避けることは多くの場合、不可能です。それらの努力を阻む原因を耐えるほかありません。でも安心してください。忍耐力をつける方法はたくさんあります。まずは、できるだけ努力を楽しいものと思う努力をします。人は思い方次第で、どんな過酷な環境も乗り越えられます。残念な環境であっても幸福を見出すことで生きる希望がうまれてくるのです。

究極的にいえば、寝る場所、食べる場所、衣服が揃っているだけで古代の人は幸せでした。ですから雨を避けて眠れる場所がありながら不平不満を言うのは古代の人にとっては贅沢です。

嫌な気持ちの原因は命令されるから

例えば「スタバは楽しい場所だ」と思っている若い人がいたとします。確かに私にとってもスタバは楽しい場所です。もし私がお金持ちなら毎日スタバに行ってもいいと思っています。ですが、カフェはリラックスできない場所と思う人もいるのです。同じ環境なのに、人によって正反対の感想が生まれます。

勉強や仕事、スポーツに関しても同じことがいえます。それを面白いと思う人と、そうでない人、中立の人などです。この違いは思い方、つまり幼い頃に感じた感覚が条件反射となって生じているだけの現象です。勉強嫌いの原因は親や祖父母、あるいは先生に虐げられたことによるものです。「勉強しなさい」という言葉は命令です。その言葉に従うことはすなわちその言葉を発した人の奴隷になることです。人には自由を求める心があるので、命令と受け取った人は反発する感情が生じます。それが努力への抵抗の原因となっている嫌な感情のひとつです。

命令されることが多くなればなるほど人間でも動物でも主人に逆らいたくなるものなのです。

自発的にやる

すぐれた親は、子どもが自発的に学習をすすめるように促します。しかし頭の悪い親は子どもに命令ばかりして子どもから自由を奪います。それは社会の人間関係でも同じで無能な人ほど他人に命じます。ですから、努力を続けるためには人付き合いも影響していることを自覚したほうがよいと思います。

裁量の大きな仕事をするためには知識と経験が必要です。良い大学に行くためには親や部活動とは距離を置いてひとりで勉強するまとまった時間が必要です。

すぐれた人は、それに見合わない報酬で仕事を頼まれることを嫌がります。すぐれた人は自ら商品を作って利益を上げることができるからです。

掃除のような家事についても同じことが言えます。家族に命令されるとやる気どころかやりたくなくなります。

それは人間が本能的に自由を求める生き物だからです。

幸福感を得る方法-消える幸福感の正体

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幸せについて考えたこと。幸福感が長続きしない原因について。偉大な哲学者は幸福とは何々であるとそれぞれ定義しています。それは身の回りのささやかな良いことを見つけることであったり、自ら行動して得る快楽だったりします。何が幸せかについては年齢や環境によってさまざまです。

このページでは幸福について、哲学者や偉人から学んだことや自分で考えたことを書いています。

幸福感の正体

理性で幸せが何かわかっていても幸福感という感覚が伴わないことがあります。若い人にとっては大病を患っていないことが幸福であっても、それに気づいていない人がほとんどです。あるいはそこそこ恵まれた家庭に生まれただけでも幸せなのに、その有難みがわからない人がいいます。

つまり、人は恵まれた状態に慣れると幸福感を感じないようにできています。

幸福の泉

水道が無い住宅に住んでいる人は、近くの泉まで水を汲みに行くことが仕事です。泉は昔の人々にとって重要な場所であり、恵みの象徴でした。古代から水汲み係は奴隷や子ども、女性の仕事でした。水汲みの人たちにとって蛇口をひねれば水が出ることは楽なこと、つまり楽しいことです。

人は本能的に清らかな小川や泉に喜びを感じます。それは本能的に必要なものがそこにあって満たされたからです。

幸福とは、つまり、生存条件が満たされることなのです。

苦あるところに幸福あり

大病を患った時は、少しでも良くなると有難みを感じることがあります。完治すれば有頂天になり神様に感謝したくなることでしょう。この幸福感も生存条件が満たされたことから生じています。ただし、健康体で日常生活に不自由しなくなると健康の有難みも苦しみも忘れてしまいます。

学校に行くこともまた本質的に幸福なことです。低料金で教養や礼儀などの知識や人を得られる効率的なシステムが学校です。学校とは何となく行くものではなく、知識と人を獲得して共通認識を教え込まれる場所です。人とのコミュニケーションを学び感情を抑えることを学ぶ場所でもあります。

親が子どもにそのような説明をすることはないので、日本の子どもたちは学校の意義を知りません。それが日常となっていると不平不満ばかりが目につきストレスになります。でも苦労して念願の学校に行けたという人の場合、授業を受けられるだけでも嬉しくなるものです。

つまり、幸福感を感じる前には苦の状態があるといえます。

赤ちゃんが微笑むためには泣いてお母さんを呼びつける苦しい状態が必要なのです。赤ちゃんは愛情と保護を大人から引き出すために本能的に泣いているのです。それは遺伝子によってプログラムされているので「愛情と保護」は人類にとって生存で最も有利になる条件ということも決まっています。人は愛と保護が得られないと苦しくて泣きたくなるように生得的にプログラムされているのです。

金曜日のウキウキ感

週休二日の労働条件の場合、金曜日になると気持ちが軽やかになり土曜日が一週間の中で最も楽しいのは勉強や労働などの苦役があるからです。幸福のためにはすすんで働いたり学ぶ必要があるといえましょう。

幸福感を得る方法

勉強や労働といった苦役からの解放感は素晴らしく感じられます。ですが退職した人など苦が少ない立場の人はこうした解放感は得にくいです。稼ぎが少ないと裕福な人のように旅行に行けない人もいます。人が幸福感を得る方法はさまざですが、大抵の場合、労働の末に消費行動で解消されます。

ではすぐに幸福感を得るためにはどうすればよいのでしょうか?

消費型の幸福感

現代で最も手軽に幸福感を得る方法は消費することです。飲食は胃袋が満たされることで幸福感が得られます。旅行など生活の場からの移動は、人類がもともと長距離を移動する動物的本能を満たすので幸福感が得られます。スポーツをすることは狩猟に似た達成感があるので狩猟本能が満たされ幸福感を得られます。果樹園での収穫体験は採集体験という本能が満たされるので幸福感が得られます。買い物もまた物を獲得するという本能が満たされるので幸福感が得られるのです。

  • 旅行や観覧に行くこと
  • 飲食すること
  • スポーツなどの体験型の遊びをすること
  • 買い物をすること
  • 映画やテレビ、漫画などを見ること
  • 疑似恋愛すること

行動力のある人は週ごとにどこかへ日帰り旅行に行っています。それを何十年も繰り返している人がいます。その人にとって自宅以外のどこかへ行くこと自体が楽しいのでしょう。

これらの消費することで得られる幸福感は、すべて本能欲求を満たすサービスであることがわかります。

費用のかかない幸福感

しかし消費ばかりしていると生存に必要なお金が無くなってしまいます。おそらく、誰もが知りたいのは「どうすれば幸福感を無料で得られるか」でしょう。先にも述べた通り、大病を患っていないことも確かに幸福だと思うに値すると思います。しかし、そうでない場合、何を基準に幸せと思うのでしょうか?それは人によりけりです。

行動して得られる幸福感なら、自分で部屋を掃除することや、家事をすること。普段やらない面倒な家事をすることなどが挙げられます。

行動せずに得られる幸福感なら、夏に涼しくなれるエアコンがあるだけで幸せだ・・・などと思うことです。

  • 無料で得られる何かを集める
  • 無料で動ける範囲を散策する
  • 無料で自然に触れられる場所に行く

例えば、海辺できれいな石や貝殻を拾うことでも本能欲求が満たされます。もっといえばゴミを拾うことでも収集したいという本能欲求が満たされます。そして無料の公園を散歩したり、農地のある道を散歩したりして楽園を求めて放浪したいという人間の移動本能を満たせます。

  • あるものに感謝する
  • 人から優しくしてもらったことに感謝する
  • 人に優しくしてみる

動き回れないときに、どこにいてもできることといえば、いいことを思い浮かべることです。楽しいことを想像したり、小さな小さな幸せをたくさん見つけることで幸福を認識するのです。

一番いいのは生きているだけで幸せだと言えることです。でもそれは難易度が高いか、遺伝子レベルで幸福な人にしかできないことです。

幸福と引き換えに寿命を得た人類

現代人は超寿命化しましたが、その分だけ不幸でいる時間も長くなりました。平均寿命が30年だった江戸時代の庶民(※武士の平均寿命は50年以上)はどんなにみじめでも苦しむ時間が少なくて済みました。奴隷でも20年くらい我慢したら寿命が来て老後の心配をする必要がなかったのです。昔は乱雑に生きてもせいぜい30~40年だったので、不幸な人生になったとしてもその苦痛は長続きしなかったのです。

現代では不幸なまま長生きすることは拷問以上に苦しいことです。苦しいまま生きながらえるより拷問されて死ぬことはそれほどつらいことではありません(私の価値観です)。

現代の庶民は長生きし過ぎて昔の人より不幸であると私は思います。配偶者や子どもが病没する確率が低くなり日本では結婚後に恋愛して再婚する権利がありません。実のところ、恋愛の末の結婚は一生物ではありません。それなのに、妥協と忍耐を続けて好きな気持ちが消えても他人同士が同居している不思議な国が日本です。

生物の話

本当なら人間の女性は若い時に多様な遺伝子の子をたくさん残すために複数人の健康な雄の精子が必要です。しかしそれを禁止したのは男性です。

男性は複数人の女性と交配しているのに、女性にだけそれを禁止するのは宇宙の摂理に反するので男が余るという現象が生じます。

動物の本来的な姿は、雌が健康ですぐれた雄の求愛だけを受け入れることです。すぐれた雄ならたくさん子孫を残せます。結婚という形態や一夫一妻、ゴリラのように一夫多妻などといった家族形態は不自然極まりないのです。私たちはチンパンジーと祖先が共通なので、多様な交配型の生き物です。

不健康な雄は遺伝子で劣っているところを隠して雌を騙そうとします。それは知性を伸ばすことです。すぐれていない女性は化粧と話術で雄を騙そうとします。知性は動物としての生存戦略なので、人類の知性の発達は同時に劣等遺伝子をも受け継ぐことに繋がったと私は思います。天才に心身の障害を抱えている人が多いのは、劣等遺伝子を持った先祖が知性で子孫を残そうと奮闘した結果かもしれません。知性の進化の裏にはこうした不可避な弊害もあると思います。

幸せに慣れると消える幸福感

人は学習能力が高く、いつかは環境に慣れてしまいます。結婚したばかりの幸福感や恋愛感情が消えるのは慣れが原因です。新しいスキルを身に付けた喜びが消えるのも慣れが原因なのです。例えば子どもが次第におもちゃに興味をなくしてしまうのは学習によるものです。大人も子どもと同じで目標を達成してしまうと達成感という楽しさが消えてしまいます。

  • 友達関係への慣れ→消える友情
  • 恋人関係への慣れ→消える恋心
  • 結婚関係への慣れ→消える愛情
  • 仕事への慣れ→消える労働意欲
  • 学校への慣れ→消える勉学意欲
  • 娯楽への慣れ→見飽きる、感動が薄れる
  • 旅行への慣れ→おのぼりさんにならなくなる
  • 趣味への慣れ→楽しさが薄れる

反対に人は悪いことにも慣れてしまう能力もあります。それが悪習慣の常態化です。そこから脱出しようとしなくなるデメリットがありますが、その人にとっては慣れることでダメージを受けないようにしているのです。

楽しさや幸福感、喜びは一時的な感情です。

有難みを感じる条件

では逆に、あることへの有難みを感じる状況を考えてみましょう。ない時のつらさを思えばあるときは本当に有難いと思えるものをリストアップしました。これらは現代人にとっては無いと困るものばかりです。もしも何かひとつでも欠けているときに、あることを思うと幸せだな、有難いなと思うことでしょう。

  • 戦争と平和
  • 飢えと飽食
  • 病気と健康
  • 人間関係の多少や質
  • 住む所の有無
  • テクノロジーの有無
  • 移動手段の有無
  • 人権の有無
  • お金の有無

あるときは有難みを感じないのに、無いときは有難みを感じるものばかりです。

認識による幸福

感覚としての幸福感を得るにはそれとは正反対の「ない状態」を経験しないと感じられません。休日の幸福感は勉強や仕事という苦役があってこそ感じられるものです。健康の幸福感は病からの回復を感覚として感じたときにわかるものです。安全な水が飲める幸福感は、上水道がない環境にいたときと比べて初めて感じられるものです。人から与えられる愛情も愛が無い状態を経験して与えられることで有難く思うものなのです。

いずれの幸福感も一時的なものです。幸福な環境が続けばいつしかそれが当たり前となり幸福感が消えてしまいます。しかしそのフラットな状態は決して不幸ではありません。

私にはいくつもの幸福があると認識するだけで十分です。

ただし、中程度のフラットな感情が続くとだんだんその状況に飽きて来ます。つまり何か楽しいことや嬉しいことが欲しくなってしまうのです。そうなるともう赤ちゃんでも不機嫌になってしまいます。しかし手に入る楽しいことは有料かつ時間的にも有限です。

ほどほどが一番

人が幸せになりたい、楽しくなりたい、嬉しくなりたいという欲望にはきりがありません。しかもテレビやネットで見せつけられる他者の楽しい瞬間は自分にも手に入らないものばかりです。欲しいと思っているうちに歳をとっていき、ほとんどの人は贅沢をあきらめるしかなくなるのです。

生きているだけで幸福

高齢の人から話を聴くと、生きていきたい場所に行けるだけで幸せだとおっしゃいます。これが幸福の真実だと私は思います。病気にはなっても行きたい場所に行けないほど重病ではないことが高齢者の幸せです。結局のところ、人間にとってはささやかなことが幸せなのです。

先ほども述べた通りに、酸素が据えて、手足がそこそこよく動いて、頭もそこそこ働いていること。そのことを喜べることが幸せの秘密です。そこには身体的な苦しみと比較したうえでの幸福があります。つまりボケるよりかはボケていない今が幸せだ。寝た切りにならずに動けることが幸せだ。などといった比較です。

それ以上の物事を得ようとすると感情が揺らいでしまうことは覚悟するしかありません。何かを獲得しようとすると不快感を経験することもあるのです。その最たるものがお金、つまり社会的成功としての報酬です。お金のない人がお金を稼ぐことは99%の人が楽しくないはずです。ほとんどの人は1%の人になれませんから、精神的な苦痛を覚悟して稼ぐ必要があるでしょう。

苦痛と引き換えに夢を追うことと、あきらめること、どの道を選択するかは人それぞれです。

友達と友情について

friends

友達について悩みは尽きない。友達は多いほうがいいか、少ないほうがいいか。頻繁に会うほうがいいか、メールやSNSでメッセージを送るほうがいいか。友人がいれば孤独ではなくなるのか。親友とはどういうものなのだろうか。

友情について

五木寛之の「孤独の力」という本によると「友情という孤独」という見出しのエッセイがあった。そこには五木先生には親友も友達もたくさんいたが、年に一回言葉を交わすか、何年に一回どこかで会うか、できるだけ親密にならないようにしてきたと書かれていた。

一般的に友達付き合いというと、学校かどこかで毎日のように出会う生活があって、別れた後は年に一回会い、その後は年賀状やオンラインでのやりとりが続いた後に音信不通になっていくものなのだろう。

五木先生は友達と毎日顔を突き合わせてべったり暮らすことはしないとおっしゃっている。そこには「人間は結局、最終的に独りなのだろいう気持ちがずっとあったからだろう」と書かれていた。

友人より会う頻度の多い知り合い

実際のところ、小学校や中学校や高校などの学校でできた友人は成人後に会うことは滅多にない。同じ町内に住んでいれば偶然会うこともあるだろうが、基本的にそれは稀なことだと思う。大人になってからは友人よりも職場にいる仲間や上司のほうが会う頻度が多く、あるいはどこかの集まりに定期的に長年参加しつづけていれば友人よりも会う頻度が多くなる。

友だちよりも会う頻度が高い人は友人ではないのだろうか?少なくとも私たち日本人は何度も食卓を囲んだ仕事仲間でさえ友人では無いと決めつける。そして職場を去る時には親しかった人たちと二度と会わない決心をする。

友人よりも会う頻度が多かった人のことは、友人ではないのだろうか?友より自分のことを知ってくれているその人たちはあなたにとって何なのだろうか?こんな疑問が湧いてきた。

友情とは

友情とは何か。一生ものの絆と考えるのは甘い。五木先生は関係が濃密になり過ぎると裏切られることがあることを指摘しておられた。友情が薄ければ裏切られても捨てられても傷は浅くて済む。

若い頃は友情は死ぬまで続くかのように思われる。だが現実はそうではない。

かつての友人とは人生を共にするわけでもなく、生活も住まいも離れている。たまに会うか、旅行に行くような仲であればまだ幸いだろう。しかし友人や自分の人生がいつ転落して笑えない状況になるか予想がつかない。

貧しくても親しく付き合ってくれるような友人がいればその友こそが宝といえるだろう。現実の日本ではそのようなことはどれくらいの頻度であるといえるか確かなことはわからない。

では一体友情とは、友とは何なのか?

友人は孤独を癒してくれない

世の中を見渡すわけではないが、世間知らずな私にもこれだけはわかる。友達は物理的な孤独や寂しさを永遠に紛らわせてはくれないと。成人後に小中学校の友達と会うことなどほとんどの人はないだろう。高校の友人とは会っても年に何回か、あるいは数年に一度、数十年後ということになるだろう。

要するに成人後の日々の生活に友達が毎日自分の傍にいるわけではない。どこかに行けば友達に会えるという生活は無くなるのだ。友達に会うためにはお金がたくさんいるのでそう何度も会えるわけではない。だから、日常生活で感じる孤独や寂しさを友達が癒してくれることは滅多に無いのだ。

それでもいないよりはいてくれたほうが有難い。

それが友達なのだろう。

定住型の友情は達成困難

友人と会う頻度を高めるためには、お互いが生涯同じ地域に住んでいることが前提となる。テレビで西欧の街歩きを取材する番組では昔から続いている友情は同じ村に住んでいる人と決まっている。歩いて行ける距離だ。イタリアやイギリスでは定住型の友情を描くドラマやドキュメンタリーがある。しかしこれらの国々でさえ、地域に生涯留まれるのはそこで職を得られた人に限る。

それは友情か?

有名人やお金や美貌、何らかのスキルを持って成功している人のSNSにはたくさんフォロワーが付いている。彼らの多くは友達になる機会を狙っていて優しい言葉を投げかけ反対派を激しく攻撃する。それは本当に親しみからくるフレンドリーな気持ちなのだろうか?そうではないだろう。彼らは親しくなれる隙を狙っているのである。日常では家族や友人のことを心配しないくせに有名人がちょっと鼻水を垂れただけで心配のコメントが大量に押し寄せるのだ。力のある者に胡麻を擦るのは動物としての本能であり、彼らは皆有力者の腰巾着になりたいのだ。

だとすれば、その人が有名になってからできた友人は本当に友達なのだろうか?

上下関係のある友達

また、同性の友達同士が二人一組で会話をしている様子に偶然遭遇することがある。聞き耳を立ててみると二人の間には上下関係があり、身分の上の友人が身分の下の友人に一方的に愚痴を言っているだけである。そんな光景にこれまで何度も遭遇した。それは本当に親しい友人関係といえるのだろうか?どう見ても親分と子分の関係にしか見えない。だが、本人たちは友達だと信じているのだろう。

あるいは数人組の友人がいたとして、中心にいるのは特定の人だけというのもある。それもまた主従関係ができているのだろう。中心人物との二者関係を結んでいる子分が何人かいるだけなのだ。それは果たして友人と言えるのだろうか?しかし日本では友達ということになっている。子分同士の嫉妬の火花が散っていたとしても。確かに主従関係がありその群れが非日常で続いているのであれば、単なる群れだとしても日本語では友達ということになるのだろう。もしかしたら単なる動物の群れと友情の区別がついていない人が多いのかもしれない。

国で異なる友達の定義

先程日本人同士で上下関係のある友人のことを述べたが、海外では友達の定義が異なる。

韓国のチング

韓国では対等に友(チング)として話せるのは同じ歳に生まれた同性同士だけだと言う。1つでも歳が離れていれば先輩後輩として主従関係が生じる。先輩には親しい間柄でも必ず敬語を使わないといけない。そんな韓国人にとって友達とは同じ歳の人だけなのだろうかと疑問に思う。そもそも友だちという概念がこれまでなかったのかもしれない。

アメリカのフレンド

一方でアメリカの友(フレンド)は幅広い。ほとんど会ったことの無い人でも相談関係になればフレンドと言う。日本人が言う友達はアメリカ英語でベストフレンドに相当する。私のアメリカ人の知り合いには何人もベストフレンドがいる。

中国の朋友(ポンヨウ)

中国でもまた友達の定義が微妙に異なるようだ。友達というと、ずけずけと物を言ったり遠慮をしない関係のことを指す。中国人の物言いは日本人がきついと感じるくらいはっきりしている。日本人では友達に対しても気遣いや遠慮があったりして距離がある場合がほとんどだ。本当に貴重な生涯の友のことを挚友(チーヨウ)と言うらしい。

ニュースメディアは就職氷河期世代を傷つけ差別する

戦争や犯罪、不況や病気などのニュースは人を傷つけます。他人が傷ついている様子を知ると自分も辛くなります。しかしそれ以上に辛いのはメディアが作った差別造語に自分が該当することです。就職氷河期やニート、パラサイトや非正規労働、ロスジェネなど、孤独や死と隣り合わせで日本で必死で生きている人たちを5文字の言葉で表現することに苦痛や屈辱を感じます。誰もが好きで非正規雇用されたわけではなく、非正規雇用制度が作られたため正社員で就職して楽して働ける機会が無かったのです。

就職氷河期世代とは1993年から2005年または2010年から2013年に学業からの卒業を迎えた人々のことです。大卒の2人に1人が就職できず非正規労働をせざるを得なくなりニートやパラサイトなどと言われて差別され人間としての尊厳を奪われ続けています。

就職氷河期世代の厳しい出産事情

結婚と家族をめぐる基礎データ – 内閣府男女共同参画局

このグラフは内閣府男女共同参画局の結婚と家族をめぐる基礎データから転載したものです。ちょうど就職氷河期の出産適齢期となる2010年から2015年の出産事情を描いたものです。一人しか子どもを作らなかった夫婦が2割弱、子どもを産まなかった夫婦を入れると25%近くまで増えました。それに加えて経済的事情で結婚できなかった人を含めるとかなりの氷河期世代が子をなしていないことになります。

少子化の原因

人は幸せなら結婚してたくさん子づくりするのは本能的なものです。だからこの数字は幸せではない人が少なくないこと反映していると思います。確かに日本人の大多数は幸せなのかもしれません。でもその多数派によって傷つけられるのは常に少数派です。5組に1組の夫婦に1人しか子育てする環境が無いことと、5人に1人が貧困層という現実は繋がっているように思えます。

世界の貧しい国々では貧困な人ほど子をたくさん産むイメージがありますが、それは多くの人が貧しいので子どもをたくさん産んでも差別されないからです。しかし先進国では貧しいことは多数派によって避けられる、つまり差別されるので結婚と出産の障害になるわけです。

団塊の世代と団塊ジュニア

50年前の日本ではみんなが貧しい暮らしをしていました。女性は政策や男性により正社員から除外されていましたが団塊ジュニアだけは例外でした。団塊ジュニアは親の職業を面接時に言うだけで就職できました。いい思いができたのは団塊の世代とその子どもたちの世代です。

他の世代がもっと貧しくなれば就職氷河期が救われる

アメリカでは労働者の半分ほどが年収300万円以下で生活しています。それでもあの国は強国を維持しており共産党が台頭することもありません。つまり、マイホームを持って絵に描いたような幸せな暮らしをしているアメリカ人は半数ほどしかいないのです。

これを日本に当てはめてみると、日本はもっと解雇しやすくすべきです。団塊ジュニアのような能力が無くても就職できた人たちが生産性を悪くしています。いい意味で就職氷河期は有能そうに見える人から採用されていったので他の世代と比べても生産性は高いかもしれませんね。

何のスキルも無いのに正社員で働いている無能な人たちをどんどん解雇していって、非正規でも就職氷河期世代を採用すれば救済になると思います。

貧しい国の人はなぜ幸せそうなのか?

富裕国から見ると、一部の貧し国の人たちは幸せそうに見えます。その理由は何なのでしょうか?おそらくそのほとんどの人は宗教の教えに従っているからだと思います。イスラム教やキリスト教は貧しい人に向けた教えです。土着の宗教も生きるために最低限必要な教えがあるはずです。だからその教えを信じているだけで貧しくても幸せなのです。そして自分も周りの人たちも同じ宗教を信じているので共通の話題や価値観が多く安心していられるのです。

参考