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本当の友達とは

本当の友達
本当の友達

みなさんは本当の友達について考えたことはありますか?子どもの頃は一緒に話す人や遊ぶ人が友達でした。学校で一緒に過ごしてくれる人が友達です。多くの人が学校で一緒に過ごした人のことを友達として後生大切にしています。しかしそんな関係でも学校を卒業すると離れ離れとなり会う機会がほとんどなくなります。子どもの頃の友達が本当の友達なのでしょうか?

本当の友達について

ネットには本当の友達について次のように書いてありました。

決して裏切らない人が友達である。信頼できる人が友達だ。本音を言い合える人が友達だ。

https://domani.shogakukan.co.jp/414502 , https://kashi-kari.jp/lab/howtolove-friend-real/

決して裏切らないということは「生涯を友達として添い遂げる相手」です。信頼できる人というのは「秘密を第三者に話さない相手」ということです。本音を言い合える人というのは「どんなに汚い気持ちを話ても受け入れてくれる相手」ということです。果たしてそんな親切な友達が現実にいるのでしょうか?

友達のリアル

私の身の周りの人を観察していると、何でも打ち明けられる友人がいる人など皆無です。人は誰でも心に大きな荷物を抱えているものです。人間関係や生活状況の困窮について友達に話せる人など本当にいるのでしょうか?お金や暴力など重要な危機を友達に話せる人がいるのでしょうか?問題を抱えていると自立していない人と見なされ相手にしてもらえなくなるでしょう。

本当に人が誰かに打ち明けたいことというのは、人間関係や金銭や身体の悩みです。それが言える相手こそが本当の友達だと言うのです。

では、それ以外の人は偽物の友達なのでしょうか?それは違います。格下の友達なのでしょうか?それも違うと思います。

本当の友達に忠誠心が必要?

本当の友達の定義に裏切らないとありましたね。それは言い換えると忠誠心です。それって自分のために命を差し出してくれる友達という意味です。確かに私にもそうしてもいいかなと思える人はいます。それはご恩と奉公の関係になってしまっていて私のほうが社会的身分が下だからです。でも逆のことを考えてみれば、私にはそのような忠義心あふれる友達がいたら助けて欲しいくらいです。しかし互いに命を差し出せるような友達は本当にこの世にいるのでしょうか?

学校や職場の友達

組織内における友達は一緒にご飯を食べておしゃべりする関係です。行動する時に一緒にペアになれる人のことです。それが、おかしなことに、小学校の友だちは一生物で、職場では職場限りという区別が日本でなされています。私は退職後に職場の元同僚と会っている人を見た事がありません。老人になってから学校の友達と会っている人も見た事がありません。じゃあ、本当の友達とは何か?という最初の問題に戻ります。

老後の本当の友達

私の周りの人の様子を見てみると、高齢になって友達といつまでも遊んでいる人はまずいません。前期高齢者なら旅行に行く友人などはいるようです。

しかし早期に重病を患ってしまうと、その時点で友達関係は終了です。病気になった人は友達に会いに行けなくなるからです。わざわざ自らが病気であることを友人に知らせますか?両足で歩いて行けるなら打ち明けることもできるでしょう。でもそのような力の無い時は?

私が見た限りでは、高齢者の友達はご近所の人であることが多いようです。学生時代の友だちに、遠路はるばる何度も会いに行けるはずがありません。小学校の友だちにわざわざ電話してまで会いに行く人などもういないでしょう。ならば、本当の友だちとは何なのか?という最初の問いに戻ってしまいます。

今ではネットがあるのでネットで連絡を取り合うこともできます。ですが、会わないのにいつまでもテキストだけの関係でいることが本当に幸せなのでしょうか。

友達も大切だが本当に必要なのは群れる相手

確かに学校や職場など組織内で恥をかかないためには友達が必要だ。だけど、私生活で友達と過ごすことは現代ではかなり難しい。なぜなら友達が生涯にわたり自分が住んでいる場所と同じ地域に居てくれないと共に過ごすことはできないからだ。テキストだけの関係でもいないよりは有難い。しかし本当に私たちが必要としているのは日々を過ごすうえで物理的に助けとなってくれる人である。

人は分かり合えないが体験を共有できる

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親子、きょうだいしまい、夫婦や恋人同士、友人同士で気持ちが分かり合えることがあるだろうか。あるとすれば気持ちのごく一部だろう。他の人の苦労は自分が経験してみないとわからない。あるいはそんな風になったら嫌だなという気持ちになり表面的な同情をする。

人の気持ちは分からなくて当たり前

最も身近な人について考えてみよう。家族や恋人について。あなたはその人の頭の中を理解しているだろうか?何を考えていないかわからないはず。子ども同士の遊びを観察していても、それぞれがそれぞれの事に夢中になっていて一緒に遊んでいる子のことなどこれっぽっちも思ってない。

例えば何か悩みがあって気にしていることがあるとしよう。ほとんどが自分と他の人との関係について悩んでいると思う。同じようなシチュエーションでも全く気にしない人がいる。

学校や職場で何年も長時間同じ時間と場所を過ごしている友人や仲間の気持ちならともかく、離れてしまうと相手が相談を持ちかけてこない限り友人の窮状はわからない。会社を退職したら仲が良かった同僚と二度と会わないことは当たり前といえる。

人間関係の本質はその場限りであるのが自然だ。いくら親しくなっても年賀状で死ぬまでやり取りをしているのは公務員くらいだろう。会っては別れ、会っては別れを繰り返すのが私たちの人生の真実だろう。

親子でも分かり合えない

父がたどってきた歴史と母がたどってきた歴史は別々のものだ。子も親とは異なる性格や文化を持っている。兄弟姉妹でも子どもの頃は喧嘩ばかり。兄と妹は成長するともはや別の生き物であるが運が良ければ良き友人となれる。祖父母となると優しくしてくれる人であっても彼らの何を知っているというのだろう。やはり孫であっても祖父母の生い立ちから死までほとんど何も知らない。それなのに孫は愛されていることを確信して祖父母に甘えては困らせる。

コミュニケーションは表面上のやり取り

遺伝的に親密な関係でも分かり合えないのにコミュニケーション能力があるとは一体どういうことなのだろうか?おそらく日本人に理解されているコミュニケーション能力とは一方的に自己主張をできる人のことだろう。よくしゃべる人を観察してみると、自分のことを延々と話している。よく話す人は友人も多いけど、その友人はコバンザメのように寡黙だ。つまり友人といいつつ親分子分の関係が成立している。

コミュニケーション能力が高い人とは

本当にコミュニケーション能力が高い人というのは人生のドン底を味わった人のことだ。なぜなら人が体験するありとあらゆる苦痛を経験しているから感覚的に他人の苦労がわかるのだ。

そう思ったらコミュニケーション能力を高めようとは思わなくなるだろう。

なぜ結婚するのか

となると、なぜ人は分かり合えないのに結婚をするのか。それはお互いの存在を認め合いたい(孤独から逃れたい)から。共に人生を歩みたい、子孫を残したい、愛し合いたいなど理由はさまざまだ。分かり合えないまま結婚するのだから妥協と居心地のよさが必要だ。お互いに愛があればそれで十分だろうと思うも恋愛ホルモンも3年しか続かない。

人は自分のことすら知らない

子どもが最初に経験する感情は快と不快の二種類だ。眠る時の安らぎだ。食べる・寝るだけの生活からからちょっとした冒険をし始める。そこで世界を知る体験をする。少し成長すると自分の要求を母に突きつけるようになる。少しずつしたいことやしてほしいことが増えて行き子どもは成長する。

子どもは楽しいことしかやりたがらない。成長とともに、やりたくない事は少しずつ増えていく。そこで嫌だという感情を体験する。嘲笑を見て恥という感情を体験する。悪意を覚えるのも小学生からだ。大切な誰かが亡くなるという最初の悲しみを体験するのは10歳未満だろう。

子どもは、大人もそうで基本的に自分のことしか考えていない。友達のことを大切に思えるようになるのは思春期あたりからだろう。

初めて自分に降りかかるストレスを体験するのも子どものうちだ。孤立への恐れと友人関係が最初のストレスだろう。今はインターネットがあるので何らかの解決策が呈示されている。しかし人間関係の悩みは終生続くことになる。

恋や進路、就職とめまぐるしく時が過ぎる。そこで順調に生きることができればどれほど幸せだろうか。何の疑いもなく付き合った人と結婚できればそれが一番幸せだ。

感情の伝染

一人の赤ちゃんが泣くと近くにいた赤ちゃんも泣き始める。それは聴覚で音を受け取り感情が伝染するからだ。その逆はあるのだろうか?一人の赤ちゃんが笑うと近くにいた赤ちゃんも笑い始める。あるいは穏やかなる連鎖もあり得るのか。

私の体験ではすぐ近くで怒っている人がいると、それが他人なら不快になる。親しい人がネガティブな事を言っていると、それを聞いている自分も不安になる。

個人的な経験からは感情は移ると思う。それに対して意見が異なっていない限り。

発言してはじめて気持ちが伝わる

何も考えを言わなかったら他の人に気持ちは伝わらない。他の人に苦しみを告白できるのは安全な環境がある時だけ。自分が悲観しているのとは異なるアイデアを返してくれると安堵できる。それは最も身近な親子関係でも同じ。親祖父母が何を考えていたのか子どもはほとんど知らないはず。

家族でさえロクにコミュニケーションを取っていなくても一緒に行動することで知ったような気になっていた。でもそれは違った。家族というものは体験を共有するだけで感情までは共有していない。

人格を磨く

人と仲良くなるためには自分が成長するしかありません。子どもの頃の私は気が短かく臆病で怠け者でした。この性格がもともとの性格なのか後天的なものかはわかりません。しかし自己内省を繰り返すことで徐々に考え方が変わってきました。

できないことはできるまで努力するか、無能なままそこでやめるかどちらかです。家事も毎日やっていると次第にできるようになりました。人との会話もいつの間にかそれなりにできるようになりました。できないことを習慣にすることで何の苦痛も無くできるようになりました。

自分が成長することで怠け癖も次第によくなりできることが増えました。それはたくさん本を読んだり勉強して人格がより磨かれたからだと思います。

居心地のよい人間関係

幸福とは、お互いに居心地のよい人間関係を作ることです。親子関係や夫婦関係、コミュニティーなどでの人間関係。そのためにはまず自分自身を変えて少しのことで感情を波立たせないようにする必要があります。

として同じ体験を共有するためには、攻撃的な考えを捨てることです。信頼できる人とだけ付き合うことです。自らが信頼に値する人間になることです。

結婚のメリットと注意点

結婚

結婚について。ほとんどの日本人は結婚する事実。相性が良ければ最高の人生が保証されている。だが中には結婚に踏み切れない人もいる。ここでは結婚のメリットについて考える。

孤独からの解放

結婚生活が順調にいけば子や孫ができ孤独から解放される。物理的孤独からの自由を意味する。もちろん子孫が順調に育つとは限らない。そこそこの収入があって家庭生活を送れることが日本一の理想の人生像だろう。

結婚生活では途中で配偶者や子が亡くなるリスクもある。そうなったら別の幸せを見つけるしかない。年上すぎて先立たれることもある。また、年上すぎるとありのままの自分を表現できないかもしれない。

孤独の解決=結婚というイメージだ。

現実には性格の良い人かつ収入が安定している人というのは限られている。そのような異性はすぐに売り切れる。

性格という地雷

不幸を知らずに育った人や不幸耐性のない人は結婚生活に支障がでる可能性がある。運良く不幸を体験したことのない人は、確かに幸せ者だがちょっとしたことにネガティブな感情を持ちやすい。理系の人にありがちな印象だ。性格はお互いにポジティブなほうがよいだろう。

自分を表現できることが条件

お互いに自分の考えを表現できることはとても重要だと思う。そのせいで喧嘩になったとしても言いたいことが言える環境はとても重要だ。

しかし私の祖父母も親も、内面の苦悩を話している場面は見たことが無い。自分のことで悩んでいる様子は見たことがなかった。もともと幸せそうに過ごしていたが、決して楽な人生ではなかった。

不幸を受け入れる

結婚生活ではさまざまな問題が起きます。親の死や親族の問題、家族の人間関係など。病気と介護の問題など。感覚的に不幸な気分になるかもしれません。その時に力を合わせて乗り越える覚悟が必要です。健康そうな人を伴侶にすることでリスクは軽減されます。

選択肢は有限

ここはアメリカではありません。いくらポジティブになっても選択肢がありません。親を見送った老後はボランティアと趣味と自宅の片付け、アルバイトしか基本的にやることがありません。住んでいる場所で知り合いを作って仲良くするしか人生の選択肢がないのです。施設に入ったら昔の友人と会うこともなく、そこで知り合いと適度な距離感を保って仲良くするしか人生の選択肢がないのです。

離婚・再婚の自由が必要

国民ひとりひとりに人権が与えられ、自由に考えられることができるようになりました。しかし結婚制度は人権が制限されていて自由ではありません。人が生涯にたった一人だけを愛することはあり得ないということを誰もがわかっています。だから今の法律で結婚をしようと思うと責任感を感じるあまり晩婚になったり生涯未婚に至るのです。

女性の正規雇用が必要

恋多き殿方が多くの女性を付き合うためには女性が正社員で働ける環境が必要です。本当に自由に交際したいなら、シングル親の権利や子どもの養育費などの社会保障が必要です。

幸福になるたった一つの方法

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幸せになりたくてこれまでさまざまな思想を学んだ。というよりは助けを求めて貪り読んだ。だが自分に合う永続的な見地は見いだせなかった。つまり心から信奉できる考え方はなかった。仏陀のように欲を捨てることはできなかった。ジーザスのように人を愛することもできなかった。ポジティブ心理学のように物事を楽観的に解釈することもできなかった。気が付けば生きることすらどうでもよくなった。生きることそのものへの執着はなくなった。でもそれすら私の心的真実ではない。見栄えをよくするための嘘だ。実際に幸せな人がいることから自分も幸福になれる方法があると思った。

夢や希望

私の望みといえば、お金、名誉、安定した暮らし、健康、何でも言える人間関係など、他の人とそう変わりが無い。いわゆる「こんな暮らしだったら安心だ」という環境キットのことだ。世の中で起きているさまざまな出来事は常に夢と希望に関係している。

でも、それらは容易に手に入るものじゃない。今の世の中の仕組みでは生まれながらに大金持ちの相続人か、記憶力と世渡りがうまい人か、人並み以上に努力して成功した人と、その妻子のどちらかだ。

苦しみ

人生に苦しみは付き物だ。そのほとんどが他者との関係か、病気によって生じる。友人は多ければ多いほど良いと私は思う。家族も多いほうがよいと思う。大人になってから友人を作ることは難しい。都会では簡単に友人を作れるけど縁が切れるのも早い。職場で仲間がたくさんいても退職後に会うことは無い。大学の友人も遠くに別れてしまえば一生に一度会えたらよいほうだ。

幸せ

幸せはどの生活水準でも発見することができる。でも心から望んでいることは手に入らない。幸せとは天気が穏やかで良かったとか、その程度のことらしい。風呂が気持ちよかった、ビールがおいしかったなど。誰々と一緒にいられてよかった、などなど。

瀬戸内寂聴さんは人は幸せになれると説いておられた。だけどネットには幸せはなるものではなくあるものだという人もいる。幸せになれないという清水ミチコさんもいる。ほんと、混乱するよ。

でもね一番の幸せは言いたいことを言ったら別の見解を聞かせてくれる相手がいることだと思う。

幸福の条件

人は自分で幸福の条件を決めている。それによって快不快の表現を自ら許可している。人が何を幸福と思うかについては千差万別だ。

信じること

人は何かを信じている。救済だったり来世だったり、幸せになれることだったり。さてはて、信じ続けるには人生はあまりにも長すぎる。疲れてしまわないかい?でも人は何かに頼らないと不安になる生き物。この世にいない存在に対してならいくらでも甘えられるから宗教が作られた。

祈ること

子どもの頃から困った時に私は祈るようになった。神様仏様お助け下さいと。どこの神様でもいいから助けてほしいと思う。まだパンをくださいと祈ったことはない。心安らげるものならなんでも与えて欲しいとすら思う。嫌なことから遠ざけて欲しいし恵みは多いほうがいい。

永遠のすれ違い

人と人とが本当の意味でコミュニケーションをとることはできない。母娘だけは例外で濃密な日々を過ごして来た場合は意思疎通ができる。母息子では残念ながらまともな意思疎通はできないと思う。なぜならそういう生き物になるように作られているからだ。女性同士の意思疎通もそこそこ可能だろう。だけど雄という生き物は表面的なやり取りしかできない雰囲気がコミュニケーションの邪魔をしていると思う。

幸福度ランキングとコミュニケーション

おそらくは、幸福度ランキングが低い国ほど意思疎通が困難だと思う。理由は自由な感情表現が国によって制限されているからだろう。それは数字が示している通り不幸なことで苦しいことなのだ。その国でいくら心を健やかにしようとしても頭脳が病んだ社会では実現不可能だ。

楽しく生きること

誰もが毎日笑って好きな人に囲まれて暮らしたいと思ってる。そして実現する困難さに直面している人の多い事か。その原因は嫌いな人と結婚するからだ。家庭環境が良くないせいだ。労働環境が悪いせいだ。好きじゃなくなったら別れないからだ。嫌になったら離れないからだ。

幸福度ランキングが高い国では安心して離婚できる制度がある。自由で開かれた豊かな社会では努力して家族関係を維持する必要などこれっぽっちもない。

他者とそこそこ楽しく生きるためには平均的な収入が必要だ。

幸せになれるたった一つの方法

幸せになれる方法は一つではない。だけど幸福感を得られる方法が一つだけある。それは今あることに感謝することだ。昔の人はパンか米と水があるだけで神に感謝していた。常に飢えている世界中のほとんどの人たちにとっては食料があること自体が幸せだった。当時はほとんどの人が文字を読めず学校すらなかった。学校ができたときは学校に行けることが幸せだった。酷い病に苦しんでいた人は、日々少しずつ楽になっていくこと自体が希望であり幸せだった。

つまりすぐには得難い欲求が満たされることが幸せになれる確実な方法だ。

幸福とは条件である

これらのことから、幸福とは比較と条件であると断言できる。何か苦しい状態があって、それが何らかの原因で相対的に軽くなる。そこに人は幸福を感じるのだ。

人に善いことをすると嬉しくなったり誇りに思うのは、そうでない自分との比較だ。家族以外の人に話しかけて気分がよくなるのも、そうではない自分との比較によるものだ。

つまり以前の状態との比較に脳が喜びを感じている。その条件については次のような基本的欲求がある。

幸福とは欲求が満たされること

要するに幸せの本質は現状が改善されて欲望が満たされることなんだ。その例をあげてみたいと思う。

  • 健康状態が改善されたこと
  • スキルを身に付けたこと
  • 気分や体調が前よりよいこと
  • 人と話すこと
  • 食べるものがあること
  • 着る服があること
  • 毎日お風呂に入れること
  • 勉強や趣味に没頭できること
  • 家族がいること
  • 親戚がいること
  • 仕事があること
  • 生きていること
  • 天候が穏やかなこと
  • 自然を見て癒されること
  • 信仰心があること
  • 部屋が掃除されてきれいなこと
  • 図書館から無料で本を借りられること

などなど、大抵の人が幸せだと思うことはこうした無い事と比較したうでの条件そのものだ。

しかしそれがわかっていながらなぜ毎日ご機嫌になれないのか?仕事や勉強、日々の生活に身が入らないのか?あるいはそれ以下の気分になるのか。

それは心がフラット以下になるようにできているからだ。神経が疲れると気持ちが沈んでしまう。

確かに幸福だと信じ続けることができたらいいのにと思う。

高次の欲求

基本的な条件が整えば、欲望はさらに次の段階に進む。それはマズローの言うような自己実現や所属と愛の欲求だ。これは要するに他の人から認められることを意味する。信頼に値する人間になるということだ。そのためには何らかのスキルの習得が必要となる。これらの幸次の欲求が叶わないから現代人は苦しんでいる。そしてこうした欲望を望んではならぬという自己啓発人まで現れるから邪魔が多いことは言うまでもない。

個別の幸せの条件

人にはそれぞれ好みというものがある。欲しいものはさまざまだ。有名人に会えばご機嫌になれるという人もいるだろう。好きな物を集めることが楽しいという人も。好きなスポーツも人それぞれ。犬が好きな人、猫が好きな人、別の生き物が好きな人。個別の幸せの条件については私がここで述べることはできない。

群れる

人は群れの生き物です。何らかの群れに所属していることは幸せの絶対条件に入ると私は思います。なるべく誰かと暮らした方がいいと思います。

ここに書いた以上の幸せは無い

世の中のどこをどう探してもこのページに書いた以上の幸せは無い。億万長者ですら例外は無い。欲しい物は自分で努力して得るしか無い。うらやましいと思う物があれば得られる努力をするか、あきらめるほか道はない。他人からの愛情も無料では手に入らない。常時ご機嫌でいるためにはその生活水準を維持するお金が必要だ。勉強で身に付けたスキルとお金と社会貢献だけは自分を裏切らない。

幸福感は一瞬

何かを得たと思って生じる幸福感は一瞬の感情だ。何度も思い出して幸福感に浸ることでも幸福感は得られる。大好きな誰かと過ごしたとしても幸福感は永続的なものではない。

幸せなことは毎日記録せよ

幸せだと感じたことは一生物のノートにメモしておくことだ。書き留めていればいつかは宝の山となるだろう。忘れないうちに子どもの頃の記憶も書き留めておこう。その日の食事内容も。

長生きが幸せとは限らない

今ある幸せに気づくと失うことがとても恐ろしくなる。どんなに幸運な人でも幸せは長続きしないようにできている。幸せそうな人生を送って来た人は退職後に内臓を痛めている人が多い気がする。それはまるで好きな食べ物を食べて行きたい場所にたくさん行ったことの証明書のようだ。逆に幸福感を追い求めずフラットな精神で我慢を続けて来た人のほうが晩年は健康だったりする。

皆婚時代のおばあ様が長生きなのは、好きでもない相手と結婚してしたいこともせずに家庭でずっと我慢していたおかげだ。

でもときどき人はこう思う。自由なら人生の終わりも自分で決めたいと。持っていた幸せを失って苦しむくらいなら苦しまない道を選びたい。それこそが本当に安心して自分の人生を積極的に生きられる幸福の権利であると私は思う。

この世界で生きることは本質的に悲しいこと

誰もが幸せになりたいと思うも絶対的な幸せは誰一人として手に入らない。私たちは悲しみと喜びを繰り返して日々生きている。どんなに幸せに見える人でも決して絶対的な幸せになれない。若さは二度と手に入らず、失った日々も戻って来ない。ディズニーランドにハマる人も、酒場で楽しく騒いでいる人も、その時に浮かれているだけだ。

どれほど気分が良くても自分の運命を思うと沈痛で悲しい気持ちにならざるを得ない。ハリウッドスターでさえ幸せではない。そう思うと永遠の幸せなんて存在しないと思わないか?

幸福と不幸は表裏一体

なぜ人は幸福を求めるのか。それは死を本心では不幸と思っているからだ。命は有限であり幸福も減ることを知っているからだ。魂の救済を信じて生き続けるには長すぎる現代、趣味を極めても称賛も褒美も得られず楽しくなくなってしまう。長寿時代のおかげで道徳心のある人が増えて治安も改善されたというメリットはある。そして苦悩もインターネットで共有できるようになったことは喜ばしいことだ。

病を得れば、病が無い状態の有難さを知り、家族を失えば家族がいる状態の有難さを知る。富と名声や権力を得るには幸福感という感情を捨てる覚悟がいる。

何かの幸福を得るには、苦痛に耐えたり何かと交換しなければならない。愛情ある人が家族にいる場合、幸福であると同時にその人を失う苦痛と悲しみは深くなる。可愛く育った子どもが結婚を果たすと親は孤独になり夫婦間のコミュニケーションの問題が浮き彫りとなる。大きな家に住んでいると出費もかなりのものになる。

自己対話の重要性

より幸福な人生を送るためにはポジティブでいることは必須です。そのためには多くの偏見を自分から取り除く必要があります。自分や世の中を肯定することです。ベストを尽くした自分は悪くないのです。

自己啓発や人生訓は役に立つのか

自己啓発や人生訓は役に立つのか?

大きな悩みがある時に人生訓や自己啓発は役に立つのでしょうか?受験や就職・結婚といった人生の大きな節目に悩みはつきものです。そのときに読むのが偉大な先人が残した言葉や人を励ます本です。果たしてそれらの有難いお言葉は本当に役に立つのでしょうか?

偉大な人物の言葉は役に立つのか

とても困っている時に誰かに温かい言葉を貰うと元気がでます。映画に感動すると困難と闘った主人公と同じ勇気を感じます。しかしそれは本当にあなたの人生の役に立つのでしょうか?確かに言葉ひとつで人生が好転する人もいるかもしれません。

例えば大切な人を亡くして落ち込んでいる時に一番お世話になるのが宗教の本です。仏陀の言葉やそこから学んだ人が人を慰めるために発した言葉です。あるいはキリスト教やイスラム教などの聖典のお世話になることもあるでしょう。

次に助けとなるのが偉人が残した言葉です。実際に歴史に名を残した人物の言葉には説得力があります。なぜなら実体験に基づいて得た教訓だからです。

現役の実業家や学者などの有名人の言葉も有難いものです。

信じれば効果がある

疑いなく彼らの言葉を信じられる人は幸せ者だと思います。いわゆる「信じれば救われる」という諺のことです。そのまま一生幸福な夢から覚めなければその人の人生は幸せなのでしょう。それならなぜ日本は幸福度ランキングが低いのでしょうか。

信心深くても貧しい現実

しかし現実は信仰心が厚い人ほどその生活は貧しいです。毎日神様や仏様にお祈りしている人で、どのくらいの割合の人が豊かな生活を送っているのでしょうか。貧しくても毎日朝夕と寝る前の祈りを欠かさなかった人は長生きできたのでしょうか?

私の周囲の人たちで熱心に祈っていた人たちはみんな貧しいです。毎週末に遊び歩いているような人のほうが裕福です。信仰熱心な人ほど低収入で節約に節約を重ねています。

ポジティブ信仰は役にたつのか

次に、今はやりのプラス思考について考えたいと思います。コップに水がある時にポジティブな人は「まだ半分ある」と考えることです。ネガティブな人は「半分しかない」と考えるのです。これは本当に前向きと後ろ向きの言葉なのでしょうか?

別の言葉で考えてみましょう。自動車のガソリンが「まだ半分ある」と考える人は本当にポジティブなのでしょうか?ガソリンが「半分しかない」と思う人は本当にネガティブ思考なのでしょうか?

この考え方の違いそのものは本当にポジティブとネガティブで区別できるものなのでしょうか?

私の答えはポジティブでもネガティブでもないと思います。しかも対立しているわけでも無いと思います。ある現象を単に二通りの言葉で表現しただけです。「しかない」という言葉を思いついたくらいで何も暗い気持ちになる必要すらありません。

信じれば効果がある

現象を別の言葉で表現しただけなのでポジもネガも無いと思います。要は言葉遣いの問題です。

これらのポジティブ思考も「信じれば救われる」と同類の価値観です。「幸せになれる」と信じているのです。偉人の言葉同様にポジティブ信仰を信じられる人は本当に幸せな人だと思います。

信心深くても貧しい現実

前向きな考えをいくら信じていても、現実は貧しい人がほとんどです。それでもなお信じたいというなら信じればよいと思います。愛情やお金や望みの子孫が手に入ると信じて、信じて、信じ続けた結果はどうなったでしょうか?お望み通りにならない人のほうがほとんどだと思います。それでも信じ続けられる人は幸せだと思います。

ぜんぶ捨てたら幸せになれるのか

昔は食い扶持を減らすために親が子をお寺に預けたり、労働力として手離すことが当たり前にありました。その子たちは自分の意思にかかわらずそうなる運命が決まっていました。幼少よりすべてを捨てて生きて行かねばならない人がほとんどでした。

彼らは少しでも自分たちの心を慰めるためにこう思います。「何も望まなければ幸せだ」「生きているだけで幸せだ」と。そう信じられる人は本当に幸せなんだと思います。でもそれは置かれた境遇に対して不満を消して生き延びるための言葉です。

こうした価値観が根強い地域は現代でも貧しいままです。例えばブータンやチベットのような国では子どもたちが出家することで見た目の平穏が成り立っています。僧侶にとって寄付で食べさせて貰えるだけで有難いのです。そこで修行して幸せになる考えを徹底して身に付けます。

確かに他者との共同生活で一生を終えることは幸せなのかもしれません。

しかしここは日本なので長生きできる環境が整っており寺などでの共同生活は楽ではないと思います。

ネガティブは悪か?

寂しい孤独虚しい。これらの感情を私はここで名付けて三大ネガティブ感情と言いましょう。人はこれらの感情を避けるためにさまざまな努力をします。他人にしがみつく行為が一番簡単です。でもそれでは嫌われてしまうので友達や恋人の振りをしてしがみ付きます。

しかし考えてみてください。この感情は人が生きるうえで欠かせない感情ではないでしょうか。寂しいから人は群れ、孤独だからこそ人は愛し、虚しいからこそ人は楽しみを作り出します。

私たちはこれらの感情が湧き出る状況をとても恐れています。日本人は学校でそういう風に刷り込まれたからでしょう。

つまり、友人が多いほど、家族が多いほど、物理的孤独な人よりも精神的に弱いことを意味しています。

楽しい感情は一時的

よく人は「楽しくなりたい」「気持ちよくなりたい」という欲求を抱きます。感情を得るためにディズニーランドに行ったりダンス飲み屋に行ったりします。ゲームに没頭する人もいます。パーティー三昧の人もいるでしょう。何かにハマるという行為もこの範疇に入ります。

これらは一時の娯楽なので時間が過ぎればもとの感情に戻ります。楽しい時が毎日続くと人は体を壊してしまいます。つまり、楽しいことは長時間続けると異常です。

ですが人はこの一時の感情のために働き続ける傾向があります。それで収入を得ることができればプロと褒めたたえられ、一円にもならなければ中毒と罵られます。

幸福感は一時的な感情

誰もが認める幸せという感覚は一瞬の感覚です。脳が快楽物質を解放しただけです。人はその感覚を求めて行動します。ここで言う幸せとは快楽です。古代の人であれば祭りや宴会、婚礼、見世物の鑑賞などがそれに当たります。君主から褒美や社会的身分を貰った時の「有難き幸せにございます」という気持ち。病がよくなった時の嬉しい気持ちなど。

不幸な気持ちは長く続く

幸せは一瞬なのに、不幸な感情はどうして長く続くのでしょうか。しかも嫌悪感といったら最悪な気持ちです。会いたくない人に会う事や、行きたくない場所に行くこと、望まないことが起きる事。そうした感情を少しでも忘れたいと思います。不幸は自分が引き起こすものもあれば他人がもたらすことも多いです。

偉人も成功者も孤独

そこそこ有名になって成功した人でも鏡に映った自分を見て孤独を感じます。どんなに偉い人でもそうした負の感情は避けられません。お酒や夜遊びで気を紛らわせても、肝臓が悪くなるだけです。

これらの気持ちが湧きあがった時に書物を開いて慰められたらどれほど有難いことでしょう。ですがその偉大な先人の書物を暗記する程覚えてしまえるほど人生は長いです。

家族がすべてか

現代フランスや北欧では人は何度か伴侶を替えます。子どもにとって親の存在は永遠ではないということです。別の人と子を作ったとしてその人と親子ごっこを楽しめるのは数年でしょう。自由で開かれた社会では親に甘える必要がないのです。

しかしなぜ日本人は親に何十年も甘え続けるのでしょうか?実家を出ない男性はずっと親に甘えていられます。

よくテレビで家族が第一と言ってる人がいます。鶴瓶の家族に乾杯というテレビ番組です。そこではそこそこ裕福な家庭の様子が映されています。

この甘えの価値観の裏側には甘えなければ不幸だという認識以外に理由があるでしょうか?

成功しない人にとって人生訓の価値とは

世の中のほとんどの人はテレビや新聞、メディアに名前が載ることもありません。ほんの少し載った程度で成功とは言えません。運良く晩年に成功なさる高齢者もおられます。でもそれはほんのごく一部の人たちです。ほとんどの人は世の中に知られることなく生涯を閉じます。

偉人の言葉を信じて成功すれば役に立ったことになるのでしょう。しかしビジネスで成功しなかったほとんどの人はこれらの啓発書を読んでも成功しなかったのです。

唯一不変の真実とは

この世には誰にでも当てはまる不変の法則があります。生者必滅です。昔の人はこのことに真剣に取り組んでいたと思います。この事実を最初に歴史に残した人はブッダです。裕福な王子に生まれたブッダですら虚しい、無常だと思って憂鬱になられたのです。修行をしてこの気持ちを消そうと努力したのです。この人間であることの苦しみはまさにここに端を発しているように思います。

さすがにこればかりは否定のしようがありませんので諦めて受け入れるしかないのです。

幸福と喪失は表裏一体

ですが、祭りの後の虚しさや何かを失った時の虚しさ、そういったものは幸福とセットで付いてきます。動物を飼えばいつかは亡くなります。感情を満たす対象は永遠ではないのです。結婚すれば伴侶を失う可能性があります。出産すれば子を失う可能性があります。人と出会えば別れる寂しさが必ず生じます。

人は何かを得ると、何かを失います。

孤独は嫌だ!逃れる方法は無いのか?

孤独

孤独とは、年を取って一人の人、身寄りがない人、ひとりぼっち。精神的な拠り所のない人。などと形容されます。周りに人がいても気軽に話しかけられる相手がいない場合、孤独な時があります。子どもの頃は友達や仲間の輪の外にいると感じた時や追いやられた時に孤独を感じます。つまり群れの外で孤立したような感覚。あるいは群れの中にいても心が切り離されたような感覚。将来の孤独を想像するだけでも孤独に感じます。しかも、いったん孤独に苛まれると精神的に追い詰められます。

孤独

「人間は孤独である」「寝床を共にしても同じ夢は見られない」など孤独の格言はたくさんあります。人が同じ地域や群れで生涯を終えていた時代は他人との距離が近くてみんなと同じ生き方を強いられていました。早くに結婚して何の疑問もなく成人し、狩猟や農業に勤しんでいた時代がつい100年ほど前まで続いていました。昔の人は現代ほど孤独ではなかったのかもしれませんが、疎外された人は人知れず苦しんでいたと思います。それでも平均寿命が短かったので苦しむ期間もせいぜい50年まででした。超寿命国では不遇のまま生きながらえられる期間が延びたので、その分だけ苦しむ年数が増えました。

子どもの孤独

子どもの頃は、心はすべて母親に預けて見の周りの世話をしてもらって保育園に預けられるまでは幸福度100%でした。まず母子が引き離されることで人は最初の孤独を経験します。保育園などで遊んで過ごしても、母のもとで過ごすことが一番の幸福です。

小学校に上がると今度は友達関係の中で孤独を経験します。友達の輪の中に入れるかどうかで幸不幸の落差を体験するのです。また、家に帰っても母が働きに出ていていないことでも孤独を体験します。この頃より人は孤立を恐れ、ひとりぼっちのどん底を味わった子どもは深く傷つきます。

高校生以降になると友達なしで過ごすことに精神的苦痛を感じます。自宅に帰れば親がいるにもかかわらず。まだ祖父母のどちらかがいるにもかかわらず。

成人期の孤独

成人以降に体験するのが親と離れる孤独です。就職のために親の住まいとは別の土地で働かなければいけない人たちのことです。ですが、地方では親の隣に家を建てたり、結婚して親の近所に戻って来る幸せな人がいるのも事実です。親の近くに住んでいる人は親との繋がりが切れる孤独が嫌で住んでいると思います。この落差は何なのでしょうか?親しい実家と同じ地域に住まう子がいるとはとても羨ましいではありませんか。

そして経済格差による孤独。何らかの事情で就職できなかった時に陥る孤独。

男性も女性も長男や長女であれば大好きな親の近くで住みたいと思うのが本能というものでしょう。

結婚の孤独

結婚したからといって孤独から解放されるわけではありません。思い通りの生活ならよいですが、思っていたよりも寂しいと思う女性は少なくないようです。女性は親元を離れて友達も知り合いもいない土地に引っ越して、新婚時の人間関係が「1」しかないこともあるでしょう。夫の親の前では仮面を付けて嫁を演じ、夫の前では妻の仮面を演じ、子が生まれたとしても親の気持ちはわかりませんからますます寂しくなる人もいるようです。

男性も結婚を機に女性の実家付近に住みたいとは思わないでしょう。でもそれって本当に好きで結婚したのでしょうか?愛があるなら妻の実家の親御さんのことも好きになれるはずです。また、都会生まれの配偶者が結婚を機に田舎の古民家に憧れて住みたいとも思わないでしょう。誰もが現状維持が安心と思っているからです。お互いに気持ちが通じていると思っていたら、まったく相手の孤独や絶望がわかっていなかった。なんで相手が孤独でつらい思いをしているのかわからないという人も多いでしょう。

仕事や趣味で新しい人間関係を築いても、お金の切れ目が縁の切れ目となる場合が多いようです。

結婚をしたからといって孤独から抜け出せるわけではないようです。

壮年期の孤独

この年になると親との死別で孤独になる人が増え始めます。一人っ子の独身であれば結婚していたとしても、本質的に天涯孤独の身になります。子ができなかったり、配偶者が亡くなったり、夢に描いたような楽しい老後のある人は幸せです。仲の良いきょうだいがいるならまだマシです。近所に仲の良い子どもが住んでいるならそれは最高に幸福でしょう。大切に育てた子どもが独立すると、お母さんはずっと我が子を心の支えとして愛の無い結婚生活に孤独に耐えてきたので熟年離婚に至る場合も少なくありません。

老年期の孤独

高齢になると、はじめは旅行に行ったり地域の集まりに出る機会が数年ほどありました。しかし体が弱り、頭も弱ってくると家にいることがほとんど。病院に入院する機会もあるでしょうから、世話をしてくれる人が必要です。子や孫がいる人は幸せなので、それ以上は望まないことが幸せなのでしょう。身体が思うように動かず、助けが欲しいのに子どもと同居していないのでうまくいかない。既婚者の場合は片方が亡くなると話し相手がいなくなり認知症が進みます。

町内に、顔見知りでもないのによく長話をされるおばあさんがいます。話を聴いていると家庭でかなりの間、ずっと耐え忍んできたようです。その気持ち、おじいさんは知っていたのでしょうか?知らないと思います。そのおばあさんは、おじいさんから愛されていなかったのです。

仮に、独身だったとしても近所にきょうだいが暮らしていて仲が良かったららひとまず安心です。

また、老年期の女性は夫に先立たれる場合がほとんどです。その逆で妻に先立たれることもあります。その後の10年~20年くらいを1人で、あるいは子や孫と暮らさなければならないのです。町内に話し相手がいればまだいいですが、孤独な心の内までは明かせないと思います。お年寄りが子や孫に心が孤独で寂しい助けてくださいなどと打ち明けるのは立場が邪魔してあり得ないはずです。だから、老年期になると孤独に耐えるほかなく、とっくの昔に夫婦の愛情が冷めている場合もあるので誰もが孤独であるといえましょう。

つまり、孤独であること自体を気にしてもほとんどの人はどうにもならないわけです。

独身男女の孤独

人間の男性には多くの女性と結ばれて子孫を残そうとする本能があります。女性であれば妻子を愛し続けて確実に子孫を育めそうな男性を選ぶ傾向があります。本来は一夫一妻性でも一夫多妻制でもないのが人間の本能です。それが一夫一妻制度の出現によって矛盾が生じました。雄の中にこの制度を合法的に利用して何度も結婚するずる賢い者がいるのです。必然的に未婚の男性が多めに余ってしまいます。女性も歳をとりすぎると余ってしまいます。一定量の独身男性と、独身女性が余ってしまうのです。

余った人たちは余生を一人で過ごす孤独に耐えなければいけません。余っている男性は女性と付き合った経験が無いのでお見合いをしても相手の心情を察する能力が不足しています。まして男性が一回り下の年齢の女性をすると、生まれた年代も違うので話も合わないでしょう。余った男性は確実に妻子を養って自由にしてあげるという金銭的保証が無いとなかなか振り向いてもらえないでしょう。若い女性の立場からすると、年上すぎる男性は定年が早く、早くに家に居座られると話題も合わずに苦痛かもしれませんね。

誰も助けてくれない孤独

たとえ夫や妻、親といえども孤独感から心を救ってくれるわけではないようです。こうした感情を打ち明けること自体を拒む家族もいます。しかし打ち明けられたほうもまた孤独をとても恐れていたりします。孤独を理解できるのは、孤独に耐えてきた人だけです。中途半端な孤独の経験では、ずっと耐えてきたおばあちゃんの気持ちのような本格的な孤独を理解することができません。

本当は誰かの一言でパッと明るい気持ちになって救われたい。神秘的な力でも何でもいいから救われたい。だからこそ人は何かの宗教を信じようとするのでしょう。結局のところ、何かに依存してそれを絶対のものであると信じることが救われる道なのでしょう。

虚しさとは何か?虚しい気持ちについて考える

虚しさ

これまでずっと目標に向かって毎日がんばってきた。ところがふとある日、老いや死を想像するとそれらの努力が無意味に感じられ、やる気を感じなくなってしまう。心にぽっかり穴が開いたというわけではないけど、将来の不幸な自分を想像すると何も手に付かなくなるほどの絶望感や虚無感を感じる。どうせ他者から評価されることなく、存在を知られることなく死んでしまうのに、若くはないのに今から努力したって報われないのではないか。唯一の希望があるとすれば、あの世で親しかった家族と再会すること。そう思うとなんだか悲しくなってくる。

若い時でも努力する機会や成功する機会を何度も失い続け、気が付いてみると髪に白いものが。おばあちゃんの言う通り勉強に励めばよかったと後悔しても、アドバイスしてくれた人たちはもうあの世に逝ってしまった。

虚しさとは心にぽっかり穴が開いたような感情・気分のことをいいます。考えてみれば喪失体験と虚しさは関係のある現象のように思います。見捨てられ体験も虚しさに通じるような気がします。努力では埋まらない心の空白にどう対処すればよいのでしょうか。愛する人との別れや老け行く己の人生を思うと虚しさを感じずにいられません。やがて己にもやってくるその時のことを思うと何のために生きているのかとすら思うこともあります。

虚しさ

虚しさとは、やる気や希望を一時的になくした状態というか、心にぽっかり穴が開いたような、開いてなくても将来のことを思うと、なんだか力が湧いてこないような感覚。これまで何度も挫折や喪失体験を繰り返して打ちのめされ、それでも努力を続けてきたのに、日常のささいなことなど、どうでもよくなるほど気持ちがどんよりとするような。

しかし逆の状況を考えてみると、それはそれで不確実だ。理想に近い形で夢が叶うこともないだろうし、夢のような人生だとしても常に順調になるとも限らない。

人生そのものがサイコロを振ったように不確実で何も決まっていない。それよりは今の生活を守り通した方が余程幸せではないだろうか?

今を楽しそうに過ごしている人にもどんな災いが降りかかるかわからない。

そうこう考えているうちに虚しさなどさまざまな感情や考えは薄れていった。

将来を想像すると虚しい

大舞台で活躍する人を除き、だいたいの人の人生は決まってる。年をとれば自宅にこもり、節約生活をしつつ、テレビを楽しみ、インターネットなどをして、安物の趣味を楽しみ、体が動けば趣味の教室に通い、そして時が過ぎれば大病を患い入院して、デイサービスに通い、最後は病院か施設に運ばれてこの世を去る。実に単純でつまらないと思うがそれが日本人の老後だ。それでも何かしらの役にはたっているらしいが。どこの世界でも、こんなものだろう。平凡な人生とは難しいようで実に単純だ。何にも逆らわずに形式通りに振舞ってさえいれば時をやり過ごせる。だが、そこにいつどこで大きなストレスがかかるともわからない。

喪失と虚しさ

虚しさとは、何かを失った感覚にも似ている。それまで何かを信じて一生懸命やってきたことに水を差されて作業が中断したり、何かトラブルがあって夢を叶えることができなかった時など。あるいは将来の喪失が予想できる時。虚しさとは何かを失うことがわかっているために生じる心の反応ともいえる。

大好きな人や物がいつか失われてしまうと予想できたとき。つらいことが確実に起きるとリアルに想像してしまったとき。大好きなことをあきらめなければいけないと思った時。しかもそれらを手放すことに抵抗があるとき。

集中力と虚しさ

どんなに偉い人でも、歴史上の天才でも、何らかの事情により作業が中断し集中が途切れると虚しさが込み上げて来るようだ。それは凡人と天才関係なく、夢中になっていたことが中断されると集中力が切れて我に返ってしまうからだろう。日本人の文豪も、西洋人の哲学者も、大人気の芸能人も楽しい時間が過ぎると何もない時間が虚しく感ぜられる。物事に夢中になって集中している時と、なんでもない時間との感覚のギャップが虚しいと思うのかもしれない。

作品を作り終えた時、あるいは中断した時、演技が終わった時など、いわゆる祭りの後の虚しさに、人生の虚しさが加算された虚しさ。

難易度の高い仕事をしている人にとって平凡が虚しく感じられるのは仕事をしている時と、そうでない時の感覚のギャップが大きいから「つまらない」を通り越して虚しく思うのかもしれない。

有能な人にとって「虚しい」と感じられる状態が平凡な人の「ふつう」なのかも。デキる人から見れば、凡人の娯楽(テレビ、会食、旅行)は時間の浪費としか思えない。

虚しさの正体

虚しさの正体は、喪失体験や、嫌なことがあったりして神経が疲れているからです。嫌なことが過ぎ去ると虚しいとは感じなくなります。それはたいてい人間関係が原因です。好きでもない人と一緒に過ごさなければいけないことが原因だと思います。価値観が自由な人や聡明な人にとっては、価値観の狭い人や知識量が少ない人や認識能力が低い人と一緒にいることは虚しいです。価値観が狭い人にとっては価値観が広い人と一緒にいると仏様のような人に思えるので幸福で快適かもしれませんが、逆の立場にとってみれば「こんな人といるのは苦痛」です。話を合わせて貰ってる人は「楽しい」かもしれませんが合わせてあげている人にとっては「苦痛」です。だから同じような頭脳レベルの人と一緒にいることが一番幸福だと私は思います。

つまり、人生が虚しくない時は周囲の人から感情的に、金銭的にお世話になっている可能性が高く、自分がお世話している側にいる可能性が低い環境にいるのかもしれません。そういうわけで、虚しさは努力である程度補うことが可能です。あまり難しいことは考えずに、気楽にいきましょう。

羨ましい人生と比較する

人生が虚しいと感じるのは社会の中で役割を失っているからだと私は思います。つまり、下のほうにいるか、その外にいるかという状況です。組織の中で生きられているうちはまだ幸せだと思います。ですが、底辺、日給や時給で働いていると、その人の一生は時間給の人生で終わってしまいます。あるいは時間給ですらない場合も収入が不安定なので虚しさを感じやすくなりそうです。そうなるとお酒に頼ってしまいがちになったり。善を実行する余裕すらなく、虚しいと思ってしまうかもしれません。何か幸福なるものを見つけたくなりますけど、持っている人のように持つこともなかなか叶わず。いっそのこと貧しい国に移住してみようかと思ったり。

疎外と虚しさ

同じグループにいても連絡が来る人と来ない人がいます。いつの間にか同姓でカップル(恋人)のようなものができているのです。グループを観察していると、必ず同姓で2~3人のカップルが出来上がります。3人組であっても2人は特に仲が良く、3人目はちょっと疎外されたような気持ちになったりもします。そうやって輪の中にいても気の休まることもなく、気が付いたら独りぼっちになっています。それは動物的本能が働いて恵みをもたらさない貧しく不幸な人は疎外されているのだと私は思います。ですが、みんなが貧しい時は、仲が良いものです。やはり、日本における疎外は貧富の格差からきているように思います。

動物的な強さ

でも、長い目で見ればグループの中心人物は仲が良かったもう一人とも別れています。ですから周辺にいたとしても羨む必要はないのかもしれません。グループの中心人物は貧しくても精神的に強いと思います。やはりそれは動物的な強さが強いほど弱者を抱擁するほどの大きなグループを作り、小さいほど小さなグループを作るのだと私は思います。一人になりたくなかったら、お金だけでなく動物的な強さを身に付けるのも解決方法のひとつといえましょう。動物的な強者の相棒もまた精神的に強く、感情的に安定しているという特徴があります。でもグループの3人目以降は情緒不安定な印象がありました。

虚しさを消す方法

虚しい気持ちを消すには苦しみを告白して他者から愛情を受けるほか無いように思います。それができる関係があればまだがんばれそうですが、無い場合は神様や仏様といった聖なる存在や本をたくさん出版している著者を崇拝して頼るか、お金を払って話を聴いてもらうしかないでしょう。自分を慰めてくれる人というのはその人にとって特別な存在でもあります。その人の言う事なら安心して聴いていられる。心をゆるせる相手がいることが虚しさから脱出する鍵かもしれません。あるいは自分自身が観念して不屈の心構えを持つことです。

幸せは存在するかしないか自己啓発書を読みつくした私がたどりついた答え

自己啓発書を読みまくった結果!

この記事は心が清らかな人に向けて書いています。自己啓発というと平成時代は怪しい洗脳というイメージでしたし事実お金儲けの道具でした。昨今ではデジタル書籍の普及と共に、心理学の研究を盛り込んだ「なんちゃって科学的だ」と言ってる本や、「偉人語録」や訳の分からない本までごちゃごちゃ増えて、その本がインターネットのブログにコピペされることで誰もが無料で自己啓発ができるようになりましたが書いている人はお金儲けのつもりです。インターネットに繋げられる環境であればもう自分を慰めるための本すら買う必要が無いようです。ですが、それで心癒され前向きになれる人はどれくらいいたのでしょうか?

幸せは存在するしない?

現実の自分は相変わらず奴隷扱いですか?会社の奴隷、家庭の奴隷、など、多くの人は一生奴隷です。メディアのイメージや書籍や宗教に騙されたまま奴隷で一生を終えられる人は本当に幸福だと思います。それ以外の人にとって、市販の書籍ではもう疲れ切った心を癒すことに限界が見えてきたのではないでしょうか。人間らしく生きろと言われても、趣味に逃げたって心の空虚さまでは埋められません。寝て逃げても問題が解決するわけじゃありません。悩み続けたとしても、それで何かが生み出されるわけでもなし。希望の職業に就くなど夢が叶う人はほんの一部です。捨てれば諦めればという本がある一方で、諦めるな、などと反対の事を言う本もあります。

幸福は千差万別

世の中いろんな人がいるので万人向けに共通したお悩み解決方法が無いと言うのが私の答えです。平和が好きな人や、その逆が好きな人、甘い物が好きな人、さまざまです。つまり、こうしたら幸せという絶対的なことは存在しないのです。

私も道を探してみましたが、聖杯など存在しませんでした。親が優しくて大金持ちなら聖杯があるといえるかもしれません。おそらくこれ以上道を探し続けもそのまま高齢者になるかして人生おしまい。幸福になる方法を求道して成功できるのは宗教指導者かYoutuberくらいでしょう。その他大勢は「ワシが見つけた」と言った人のおこぼれを貰う訳ですから、それが合う人と合わない人がいます。「お釈迦様」や「老師様」と性別や境遇が同じなら同調できるかもしれません、でも女性がおじいちゃん流の幸福になる方法を学んでも合わない人が多いでしょう。

幸せになれる方法

また、幸せになれる方法を説いている人の職業や性別、価値観を見てみましょう。いかつい顔のオジサンが言う幸せと、デヴィ夫人が言う幸せは180度違うには明らかです。デヴィ夫人にとっての幸せはお金と名誉と権力と子どもです。いかつい顔のオジサンにとっての幸せは騙されてくれる人の数と金額お布施の金額です。瀬戸内寂聴さんにとっての幸せは女性に好かれることで孤独から逃れることでした。眞子さまにとっての幸せは、好きな人と自然な形で結ばれセレブ生活を送ることで、他の人から婿を押し付けられることではありませんでした。

幸福の条件

持ってる物(両親・職業・配偶者・子ども・お金)が無い状況で幸せに楽しく暮らしたいと思えば思う程、苦悩は増していきます。白髪が増えて来ると、毎日一回笑って過ごすことも、他人と一日一回会話することすら贅沢なことだと思える程です。人が本当に望んでいるものはとてもシンプル(両親・職業・配偶者・子ども・お金)なのに、それが手に入らないから苦しむのです。なんて単純なお悩みだと思いませんか?つまるところ、生きるために最低限必要なお金や人間関係が手に入らないから人生つらいんです!人間として補償されているはずの人権が危ういから人生つらいんです。苦しむ人のために助言している人は持っている物を既に持っているではありませんか!!!違いますか?そんな人が孤独や寂しさがどうのこうのといっても説得力ありませんよ。

人間らしく生きるとは

なぜ宗教が多くの人に受け入れられたのかというと、早い話、人権が無かったからだと思います。世界中のどこでもちょっとしたことで村八分にされてのたれ死ぬようなおクニだったから。衛生観念も貞操観念も低くて口汚く罵られる。そうした人が大衆向けの宗教に救いを求めたりするのは生きることが苦しいからです。支配者である武士に残り95%の人が訴え出ると訴訟を受け入れる代わりに処刑されなければいけなかったのが江戸時代です。悪代官に搾取されて何人もの人が実際に訴え出ただけで処刑されました。こうした世の中では平均寿命が短く、生きること自体が難しかったのです。常に身体のどこかがウイルスや細菌や寄生虫に冒されて炎症していたことでしょう。現代の価値観から見たら江戸時代は早く死ねたほうが幸せだったと思えるのは間違い無し。

一方で現代は長寿が苦しみを引き起こしています。昔であれば就職できなくて人間としての権利や名誉が手に入らず人生が成功しなくても余命あと10年くらいで死ぬので屈辱に耐え続けなくて済みます。今は成功できない苦しみと孤独を何十年も抱えて生きなければいけません。寺院や教会が人を支配していた時代と異なり、政府が人を支配している時代では人は昔の人の何倍も長い期間苦しみを強いられるのです。人権が無い状態で何十年も生き続けるのは想像を絶する苦しみです。

幸せは人権を持ってる人には既に訪れています。ですが持っていない人にはありません。持ってない人や失った人の立場から見れば、持ってる人が苦しむことは愚かにしか見えません。本当に必要なものを持っていない人にとっては良い思い出だけが幸せなのです。不幸な役を演じようとして育ちの良い俳優さんが鬱になられてお亡くなりになることも珍しくないと思うこの頃です。でも、苦難に耐え続けている当事者にとっては不幸な登場人物を演じたことくらいでこの世を去ってもらっては困りますよね。

不幸な気持ちになるのは動物の本能!

他人が良い物を持っていると羨ましく思い、攻撃心を抱くか、その逆で落ち込むのは人間の本能です。いえ、人間だけでなく他の動物でもそうした感情が見られます。力ずくで奪おうとするのが動物の本能です。もうこれは自分が悪いのではなくそういう風にできていると思ってあきらめるしかありません。

世の中を見回して見ましょうよ。合法的に他人の物を盗んでいる人の多い事か。集団で合法的に他人の制作物やアイデアを盗んで富を奪っているのが世の中の大半の企業の姿です。

要するに、ほとんどの人間は盗人同然の生き方をしているわけです。自分は違うと思われるかもしれませんが、胸に手を当てて思い出してください。例えば国王や貴族は国民や侵略した国からお金や財産を無理やり奪って生活していました。それが国家という形になると、王様の臣下は公務員や旧貴族です。先祖が本物の盗賊だった国王もいますよ。貴族も昔は血なまぐさいことをしていたのです。

宗教だって本来の教えなら豪華な建築物や財宝など全く必要ありません。創始者はそんなことを望んでいなかったからです。なのにあんなに豪華な建物や金銀財宝を持っているのは信徒から搾取したからです。聖者顔をした人たちの本当の顔は盗賊なのですよ(中には純粋な聖者もいますが、看板として利用されているだけです)。それを私たちは「すごいお城だ!きれいだね!」なんて言って有難がっているのです。

生きるために欠かせない物を得たからといってその人が偉い訳でも正しいわけでもありません。持ってなかったとしても悪くはありません。悔しくて腹が立って落ち込んで当然です。持っていない人にとって世の中は素晴らしいものではなく、自分を窮地に追いやった酷い世の中だと思っても当然なのです。ですが、実際の世の中というものは良くも悪くもなく、ただそこにあるだけです。誰にもほんとうの世の中がどうなっているかなんてまるで見えません。なぜなら自分に都合よく解釈して見ているからです。だから世の中が良いと思うのも、悪いと思うのも人それぞれの思い込み、個人の感想です。

幸福は感覚と認識の二種類ある

これは私の考えですが、幸福には感覚としての幸福と、認識としての幸福があると思います。感覚としての幸福は、とてもリラックスして気持ちが明るくなった状態、あるいは気持ちが高揚して浮かれた感覚など体の感覚として知覚できるものです。それらは何も無いところからは生じません。こうしたら幸せだという欲望があって、その目標が達成されると幸福感が得られるのです。

幸福感とは、何かを達成した喜びや満足感です。例えば好きな人と付き合う約束や結婚の約束を取り付けた、赤ん坊や孫が生まれた、給料が上がった、欲しい物が手に入った、人にいいねされた、ご褒美を貰った、美しい自然の景色を見たなど、さまざまな人間の欲求が満たされた時に感じる解放感や達成感、満足感です。

認識としての幸福は、私は今幸せであるという自己認識です。あるいは私はこれからも幸せであるという確信めいた自己認識です。自分自身が幸福だと思うことです。たとえ、その時の気分が悪くても幸福だと思うことです。

ただ単に心が軽い瞬間を幸福と言う事もあります。その瞬間が永続することを望んだりもします。

幸せそうな人は既に幸福を持っている

いつも心が軽やかな人は、幸せ者です。その人は既に人生において必要な物を持っています。条件が揃っていて幸せな人は持っていない人に対してこう言います。気にするな、考えるな、いつか幸せになれるなどと。持っている人が持っていない人に言っても何の説得力もありません。幸福の条件を持っている人が、持っていないものは持っていない、この先も持てないかもしれない人たちに幸せを説くには無理があります。既に持っている人に対して言ってるだけなのかもしれませんね。

持たざる者は幸福か?

では、仕事や住まい、親兄弟、恋人や妻、子どもがいない人は幸せなのでしょうか?持ってる人と比べると幸福感を感じる人は少ないと思います。健康を損ねている人は幸福なのでしょうか?痛みで毎日が苦しいはず。結婚して子がいても明日にも路頭に迷いそうな人は幸せでしょうか?きょうだいがいても対立している場合はどうでしょうか?

幸福な将来とは?

ほとんどの人は一度は愛する恋人を持つことや結婚して子ができ人生順風満帆、あるいは孫ができて楽しく過ごす未来を思い描くことでしょう。でも人によっては典型的な幸福な人のようにはいきません。愛の無い結婚生活となったり、そもそも恋人すらできなかったり、孫の顔も見られそうになかったり。そして子供の頃にもっと勉強などをがんばっておけばよかった、就職をあきらめずに勉強すればよかったと後悔するのです。でも、その努力を阻む嫌な感情があり、それが原因で努力を継続できなかったはずです。

与えられる幸福には終わりがある

他の人から与えられた幸福、例えばテレビを見ることや、ゲームをすること、漫画を読むこと、動画を見ること、娯楽施設に行って歓待を受けることは一時的な快楽だ。誰かと一緒に遊んでも必ず終わりの時が来ます。あるいは他人からの助言も、その人がいなくなれば恩恵による幸福は消えてしまいます。習い事をしていたら、いつかは先生と別れれなければならず、そこで幸福は終わります。頼っていた人がいなくなると、とたんに生活が虚しくなります。健康やお金が尽きればそれまで得られていた諸々の幸福は終焉します。これらは皆、条件に依存した幸福といえます。いずれも費用がかかり、無料で幸福を得ることはできません。

祈る

ある本には祈りが重要だと書いています。アメリカ人が書いた本ですからキリスト教のことでしょう。確かにどん底では祈るしかできることがなくなります。祈ることで気持ちが幾分晴れるということです。また、気持ちを言語化するので何を望んでいるのかはっきりします。大抵はお金や健康、家族のことでしょう。日本でも最後の神頼みという言葉がありますね。最終的には誰もが祈るしかない状態になるのでこの方法は正しいと思います。

忘れる

道元禅師のように今一瞬だけを生きるようにすれば幸福なのでしょうか?確かにその瞬間は嫌なことを忘れていられるかもしれません。でも問題が去ったわけではなく、思い出すたびにストレスを感じます。スポーツやテレビ、ゲーム、ネットなどに夢中になっている時は、一時的に問題を忘れています。それってストレス対処法の一つであり幸せとは別次元のお話ですよね。有名なお坊さんにはたくさんのお弟子様がいるので老後の心配もないから、一時的に忘れるだけで確かに安心ですね。忘れることで、一時的に気を楽にする方法も間違ってはいないと思います。やり過ぎると問題が先送りになってしまうデメリットがあります。

感謝する

自分を助けてくれた人やものに対し感謝します。感謝感激する人もいれば、特に感動も無い人もいます。祖先が苦難の歴史を歩んできたことや、食事があることに感謝します。自分自身に対しても感謝します。

信じる

幸福を自分で条件設定して、それが幸福だと信じる方法です。家族が信じているから信じる、など人が信じているから自分も信じるという方法も該当します。食事にありつけ雨風をしのげる住まいがある幸福など、古来より人が信じてきたことを信じます。今より生きることが難しかった時代に生きていた人たちが信じていたのですから、拠り所となりやすいと思います。

幸福感を邪魔する感情

例えば、優秀なスポーツ選手でも気持ちが乱れると本番で結果を出せません。舞台慣れをしていない音楽家は本番でのパフォーマンスが悪くなり評価に繋がりません。気持ちが重たくなったり、ごちゃごちゃしていると人は自分自身の能力を十分に発揮することができないのです。

挫折感や劣等感

凡人には、大舞台の上に上がれないという苦しみがあります。ほとんどの人は途中であきらめて別の道を探すのですが、その別の道にもトップの人と、そうじゃない人がいてひしめきあっています。凡人が幼少よりその道に関連した訓練を積んでいる人に勝つことは難しいと思います。

スポーツ選手のほとんどが幼い時から身体を動かして競技に関連した運動をしているので、途中からはじめた人が成功できる競技は限られていると思います。頭を使った競技でも、子どもの頃からやっていないと勝ち目が薄いのです。凡人がトップになれないにしても三流くらいにはなれる余地がまだ残されているかもしれません。それに、お金がかかります。

劣等感や絶望感といった感情はパフォーマンスを大きく低下させ挫折の原因となり得ます。逆に闘志が芽生える原動力にもなり、その感情をどう解釈するかによってその後の気持ちが変わります。

昔の人は怯えて暮らしていた

少し想像するとわかると思いますが、昔の人たちは、とても怯えて暮らしていたか、それを払いのけようと攻撃的になり過ぎていた人が多かったと思います。疫病や餓死、差別や戦争などの暴力や天変地異をとてもおそれていたと思います。その人たちが現代の価値観と比べて幸せだったかというと、人生が短かった分だけ不幸な時間が少なく、死別や病気の経験数が多かったと思います。虫歯などの治療法もありませんから口の中はかなり匂ったことでしょう。常に死の恐怖が身近にあったことから不幸な気持ちの状態が標準だったと思います。その沈んだ感情が歌となり、暗い旋律の日本の歌がたくさん生まれ、共感を得て広まったのだと思います。

気持ちが沈んでいたからこそ、文明の発展がなかった

文明が進展しなかった時代は人々が厳しい支配下に置かれていたからだと思います。現代でも人権が無い国の文明は発展していないことがわかります。人々、特に女性が抑圧された状態にあり、人が自由に物事を考えること自体が制限されています。考えることや行動することが制限されているので文明の発展が無い訳です。そのような人権の無い国で笑うことができるのは支配者層だけです。

笑顔信仰はいつから?

現代では沈んだ気持ちが悪いみたいに思われていますが、それは企業が健康そうで明るい人を優先して採用するからです。オリンピック競技を見ても、日本人だけ試合で負けているのに異常なほど笑っています。視聴者の日本人は女性のスポーツ選手に対してのみ笑顔を強要します。スマイルジャパンや、スマイルなでしこなど。笑顔といえば、かつてはアメリカの専売特許でした。アメリカを代表する人たちは恵まれているので自然と笑顔が出るのです。それに対し、日本人は形式だけの模倣、つまり人工的な笑顔で対抗しようとしました。あいつが笑っているから理由はどうであれ笑えばうまくいくに違いないと。その模倣に言葉が伴いません。それがスポーツ界やサービス業界での笑顔の強要に繋がったのだと思います。「信じれば仏に救われる」や「柏手をしておけば神の恩恵に預かれる」など、言語を伴わない形式模倣が宗教(なのか?)にも見られます。

この笑顔信仰が生じる前は、直立不動無表情信仰と幸福など無いというような絶望感のある時代の雰囲気があり文豪が次々とその考えを支持しました。それらをほんとうだと信じられる人はそれで幸せなのでしょう。信じられない人は、頭がいい人なので、本気にしないほうが幸せです。

幸福な瞬間リスト

私が考えた、幸福だなと思う時のリストです。

  • 休日が訪れた時。
  • 学校や会社が休みになった時。
  • 明日の朝起きるのが楽しみな時。
  • 朝起きてすぐに何かをしたいと思う時。
  • すぐに眠れる時。
  • 趣味に没頭している時。
  • 勉強に没頭している時。
  • スポーツに没頭している時。
  • 人と話をして笑っている時。
  • 生まれてから最初の数年間。
  • 孤独死しないことが確実な余生を送っている時。
  • 配偶者と子どもがいて家がある人生。
  • 他人とのトラブルが無い時。
  • 人の役に立っている時。
  • 自然を見て感動した時。
  • 本を読んで慰められた時。
  • 食欲がある時。
  • お金の心配がいらなくなった時。
  • 投資で成功した時。
  • 起業で成功した時。
  • 旅行に行った時。
  • 他国と比較して治安が良いこと。
  • 選挙権があること。
  • 法律で守られていること。

人生が好調な人と比べて幸福ではなかったとしても、日々の日常の中に幸福な瞬間がたくさんあります。毎日の生活が楽しいわけではなくても、理性で考えると幸福と思えることがいくつもあるのです。例えば、民主的な国に生まれたことはある意味運が良かったと思います。日本と友好関係を結んでいる国に自由に一生に一度でも往来することができることは幸せです。インターネットに繋げることができれば海外の人にメッセージを送ることができますし、仕事や気の合う人を探すこともできます。また、トイレが海外のものよりきれいなことや、他国と比較するとマシな点はいくらでもあります。

日常での幸福といえば「休日」や「完全フリーな日」が挙げられます。義務で人や物と関わらなければいけないことから解放された瞬間、笑顔が戻ってきます。また、SNSで人から「いいね」をされた時も一時的に嬉しい気持ちになります。お気に入りのカフェがすいていると嬉しい気持ちになるでしょう。この一瞬楽したな、という気持ちが人生ではとても重要なのかもしれません。この嬉しい気持ちや楽しい気持ちは長続きしないので、ノートに書き留めておいたほうがよさそうです。喜び、歓喜のキーワードは「義務や苦痛から解放された瞬間、人に認められた瞬間」です。この解放感は本当に一瞬で数分もしたら消えてしまいます。快楽を感じる物質は一瞬しか出ないので代謝されて消えてしまうのでしょう。

本当に幸福な人は、幸せについて考えていないと思います。このようなことを考えずとも気持ちがすっきりしていて幸せだからです。人は本来、学校や会社になど行きたくない動物です。快適な住まいと、家族と生活物資があれば他に何もいりません。それが手に入らないから人は苦しむのです。

幸福は存在する

確かに、幸福な瞬間や環境は今の日本に存在します。戦争が無い状態は幸福です。治安がそこそこ良いことは幸福です。選挙権があることも幸福です。どこに国にでも行く権利があるのは幸福です。ですが、それらはアメリカが私たちのために与えてくれた成果です。何を幸福と思うかについては人それぞれですが、世の中の平均という空気が人を不幸にしていると私は思います。

幸福は存在しない

幸せは存在しないという人もいます。その方が生きやすいのかもしれません。底辺で生きるためには教養など不要なのでしょう。でも、私はそうは思いません。ある人には幸福が訪れているのを見ると、幸せはあるんだなと思います。

ただ確実にいえることは物質世界そのものに幸福という「物」は存在しないと思います。あったとしてもそれぞれの動物の「快楽」でしかありません。

平均という不幸

平均という概念を生み出したのはケトレーです。彼はど真ん中が理想の人間像だと絶賛しましたが、理想の人などいませんでした。彼のアイデアを発展させたゴルトンが上下の区別を付けました。ゴルトンは平均より下にいる人を劣っていると見なし、平均をとても上回っている人を優れていると決めつけました。そしてテイラーが組織で作業するだけの人(労働者)と指図するだけの人(マネージャー、プランナー)という区別を付けました。これが世の中のあらゆる不幸の原因となっています。

ゴルトンの考えでは平均以下は劣った人間であるというのです。

この価値観に洗脳された私たちは誰もが多数派に入ることを望むようになりました。それが何を意味するかと言うと、多くの人は少数派になることをとても恐れているのです。上位者や多数派が優越感や差別心を表すようになり、世の中で平均以下に分類された人を無視したり攻撃しています。

平均が公表されるたびにそれを見た人は自分と比べて一喜一憂します。そして平均主義者へとなってしまったのです。

つまり、標準化された組織の中で働いたり勉強したりすることは、誰一人として平均値ちょうどの人が存在しないのに、平均値になるよう強制されるので非人間的扱いを受けているからつらいのです。平均以上の営業成績を上げても給料がそれと比例して上がらないことや、平均以下は解雇リスクがあるというデメリットが生じます。

平均思考は他人と異なることが否定され、自由に意見を表明することも否定されます。唯一自由があるとすれば、それは平均よりも秀でた人だけです。

テイラー主義を最も喜んだのはアメリカだけでなく日本や中国、ソ連などでした。学校教育はそれぞれの個性や興味関心に合わせて行われるのではなく「平均を作る」ために制度が作られました。平均主義を採用した組織では人間性や個性、道徳心すらもが尊ばれなくて当然です。教育の使命はテイラー主義のもとで働く労働者を養成する機関だったからです。最悪なことにソーンダイクは学校の目的があらゆる生徒を同じレベルで教育するのではなく、生来の才能のレベルに応じて生徒を分類し、優れた者と平凡な者、そして落伍者や問題児を振り分けて、後者に資源を与えるべきではないと考えていた差別主義者でもありました。

私たちが常にまるで独裁者の支配を受けているかのように見えない何かに締め付けられている気がするとしたら、それは巷に浸透したテイラー主義による優秀と普通、劣等を区別する差別心そのものです。それを見えざる暴力といわずに何といいましょうか。

永続的な幸せは存在しない

幸せな瞬間(感情)は確かに存在すると思います。本心から笑っている時やくつろいでいる時がそうでしょう。義務から解放された後のほんの僅かな間だけ。子どもや孫が生まれた瞬間。それが幸せというものなのでしょう。そして幸せや不快なことについて考えていない時間もまた幸せだといえあす。

でもこうした感覚は一瞬のものなので数分もすれば消え失せます。この体験の後に心を新たにして仕事に臨むことができればそれもまた幸福なのでしょう。

大好きな人との時間も永遠には続きません。いずれは別れる時が来るのです。

幸せとはずっと続く感情ではないのです。

宗教は最後の時まで信じられる人だけが幸せです。ですが人生がとても長い人が多くなりました。思索をするには十分な時間です。若い時に親祖父母に教えられるままに信仰心を持つことができても、人生のどこかで疑問に思ったりするかもしれません。信じるだけで救われたならそれはそれで幸せなのでしょう。

恋愛においてもいつかは夢から覚める時がきます。その時にお互いに人間的に成長していれば絆を深めることができるでしょう。しかし世の中そんな人ばかりではありませんし、なぜ私はこの人を好きになったのだろうと我に返る人もいます。ずっと夢から覚めない人は幸せなのだと思います。

参考文献

  • 平均思考は捨てなさい-出る杭を伸ばす個の科学

敗者の生き方-勝ち組負け組という価値観にやられる多数の人々

敗者はどう生きればいい?

残念なことに、世の中には経済的な意味で勝者と敗者がいます。お金持ちとそれ以外です。それ以外の人は、病気になって働けなくなると貧困層に転落する人たちのことです。昔の人は、武力でお金を無理やり集めて来ました。現代では法律でお金を無理やり集めています。

スポーツ界で勝者とは、上位1~3位までとなっています。その他大勢は敗北者、すなわち敗者です。実際の試合の場面で敗北感を表す人はそれほどいませんが、テレビなどでは上位3名までを特別扱いして優遇します。スポーツ界で上位3位に入れば収入面でも違います。一応、テレビ写りの良い選手や目立って世間の覚えが良い人も就職することが容易でしょう。小説家の業界でも賞を取った人だけが作品を販売することが可能です。

歴史の勝者は名家の跡取りでしょう。しかし傍流となれば、皇室だとしてもよほどの利権が無い限り貧困層へまっしぐらです。

就職するにしても東大と早稲田、慶応、明治大など名だたる名門出身以外は優良企業の幹部候補になれず無視されます。

医者という特権階級に滑り込むか、経営者となるか、スーパー営業マンになるか、あとはそれくらいしか世の中には選択肢が無いでしょう。

貧乏人に唯一残された選択肢は宝くじか、投資しかありませんが、いずれもギャンブルです。

ほとんどの人は夢をあきらめている

つまるところ、世の中のほとんどの人は夢を実現できませんのであきらめざるを得ません。そもそも競争の舞台に立たない人もいるでしょうし、立ちたくても経てない人もいるでしょう。幼少より本業に勤しんで無いと10位入賞も難しいでしょう。背が低すぎると駆けっこには勝てません。それならはじめから挑戦しないほうがマシかもしれない。競争の無い分野で隙間に滑り込もうと思っても、その隙間ですら激しい競争があります。

例えば、図書館司書や学芸員の資格を持ってる人が世の中にどれくらいいるでしょうか?腐るほどいると思います。作家や芸術家になれなかったから、せめてその周辺で働きたいと思っても落伍者がゴロゴロひしめきあっているのです。そうした地域で誰でもなれる職種で重要視されるのは学歴と知識量と見た目の容姿でしょう。修復技術などの特殊技能があれば尚良いかもしれません。大学事務なんかもスキルが無くても勉強さえできれば誰でもなれるので狭き門ですね。一見競争がなさそうで楽そうな業界ほど、たくさん人が集まるので競争が激しいのです。

スポーツ業界の場合、人を楽しませるレベルに達した人が出場者なので誰が見ても納得です。音楽業界の場合も上手な人に賞が貰えるので実力がそのまま反映されています。しかし、一見公平に見える背景には常に金銭、かかった費用が付きまといます。華道やヨガ道などの芸事もかけた費用が実力と比例します。勉強も同じで凡人は塾に費用をかけないと入試に間に合いません。就職するにしても塾に通わないと有利になりません。

幼少期からの努力で実現できる夢

夢には、幼い頃より親に教えられて短期間で実現する夢があります。スポーツ選手や芸能人、音楽家や研究者、医者、官僚、公務員、大手企業の正社員、職人、漁師、料理研究家、芸術家、建築家、獣医、政治家です。つまるところ、おいしい仕事はすべて幼少期からの親の導きにより実現できるのです。

奴隷階級からの努力で実現できる夢

その一方で貧しさから出発して実現する夢もあります。企業経営者、小説家、作家、投資家、お笑い芸能人、飲食店経営者。飼育員、厩務員、掃除係、世話係lプログラマーなど、ちょっと選択肢が少ないですね。貧しい人の気持ちを知っているからできる職業が多そうです。

どの階級からでも実現できる夢

ここには多くの職業が含まれます。看護師、介護職員、医療福祉関連職、運転手、工員、作業員、農業、時間給労働者など。きつい職業が多いです。労働者の大半がここに属するのではないでしょうか。

勝者の価値観は面白くない

と、これまでは勝った人の立場から物を見て来ましたが、その他大勢にとってこの見方は腹が立ちますね。確かに文化は勝者によって歴史に刻まれ続けて来ましたし、仮にインターネットのwikipediaに自分の名前が載ったとしても現代人の場合は一時的なものでしょう。たとえ皇室や公家という名門の血筋であっても傍系となれば本家から声がかかることもなく、3世代後くらいになると赤の他人。

上から目線の人は、私たちのような敗者にこういいます。「自分のできる範囲で人生楽しみなさい」や「自分のことだけ考えていなさい」と。それは上から目線の言葉ですよね。こうして出る芽は潰れていくのです。なぜならストレスをかけると人間は無力化するからです。ストレスに対処することに時間や気力を奪われるからです。なぜ他人に害されずに育った子だけが有名大学に進学できるのか。それはストレスが無かったからです。

人生後半の幸福とは

人生100年時代なんて、政治家さんがおっしゃいますけどみなさんは長生きしたいですか?誰もが「幸福な人生なら長生きしたい」と答えることでしょう。私もそう思います。ですが人生が楽しい人は、そこそこ楽に生きていられる人は公務員や一流企業に勤めあげた人やビジネスで成功した人たちとその妻子くらいではないかと思います。日本は経済的に豊かなほうですが、大半の人は貧困と隣り合わせで生きています。

何かの縁で結婚できた人は幸せだと思います。ですが、誰でも簡単に就職できた時代とは違う不況の時代に成人を迎えた人にとって若者だった時の人生はとても屈辱に満ちたものでしたし、椅子取りゲームから漏れてしまった人は寂しさや悲しさ、苦しみに耐え続けないといけません。

幸せそうに生きている人がいる一方で、趣味などをするお金もない人、テレビを見ることを趣味とせざるを得ない人がこの社会の仕組みで必ず出て来ます。

一生懸命勉強しても報われるのは奇跡のような極小数派というのが現実です。司法試験に合格できない人は何のキャリアも無いのでどうやって生きていけば良いのでしょうか?公務員合格を目指して来て合格できなかった人は専門性が無いのでどうやって生きていけばよいのでしょうか?若い時に病気になって機会を逃した人はどうやって生きていけばよいのでしょうか?

努力してもただただ時間ばかりが過ぎて行き、あの頃は幸せだたっと思うようになり、幸せが日ごとに減っていき、悲しい別れを繰り返して心を消耗していくのが恵まれない人間の人生というものではないでしょうか。希望が欲しい、救われたい、愛が欲しい!今の世の中ではこれらの願望はお金がないと実現しないのです。この願いを聞き届けてくれる人はいないものなのでしょうか。

何度でも立ち上がるしかない

それでも生きて行かねばなりませんので、何とかしないといけないなと思います。どうすれば、いいのか。これまで何度も何度も瀬戸内寂聴さんやお坊様の本を読んでは心を癒してきました。でもやはり、どんな慰めもお金に勝るものは無いと思うこの頃です。お金があってきょうだいがいれば、独身でも老後が寂しく病弱であっても何とかなるのが今の日本です。ですが、そうじゃない人にとっては厳しい老後が待ち受けているかのように思います。確かに誰かと一緒に暮らしていたとしても、片方や子に先立たれることもあるでしょう。それでも何とか生きて行かないといけない。そんな人たちに対して他の人は何もしてくれません。だから、誰よりも強くなるしか・・・。どこに幸せがあるのかといえば、まだその段階に来ていない時はまだ幸せなのだと思います。死ぬ瞬間まで好きな誰かと一緒にいること、それが人間の幸福なんだと私は思います。

ストレスについて自分の体験をもとに考えた対処法

ストレスから解放されたい!

今まで多くの学者がストレスについて研究してきました。ストレスを一言で表すと、嫌な出来事があったり迫ったりして緊張して体の状態がいつもと違う感じになることです。危険が迫って来ると脳が瞬時に判断して体がすぐにでも対処できるようにする状態に変化します。これがまた当人にとっては不快で苦しい。夜になっても眠れなくなり一切の楽しい感情や安らぎもなく、緊張感が持続するわけです。そしてその危機を乗り越えるために自問自答をひたすら繰り返すのです。

それとは逆に、落ち着いている時はそんなことは棚の上に置いて先送りにしたりしてのんびり過ごします。ストレス時に考えていたことを考えないようにして避けたりします。怠けモードでもありますが、いわゆる安静モードで健康的と思える状態ですね。

ストレスとは勇気の源!

言い換えると、ストレス状態というのは勇気に満ちた状態とも言い換えられましょう。普段は考えたくないことを考える勇気が出るのですから、それを勇気と言わずに何というのでしょうか。ストレス状態にあってこそ出来る行動というものがあります。それがスポーツだったり、創作活動だったり、研究だったり、読書だったり、先送りしていた問題への対処だったり。普段できないことをやれる勇気が出ているのですから、成果も得やすくなるというメリットがあります。

嬉しいことがあって眠れないのもストレス状態です。憧れの有名人に会ったなど、もう一度思い出したいほど楽しいことがあった時もストレスです。

ストレスが無いとどうなる?

逆に、ストレスが無いのもストレスです。安全な生活を送り続けていると、そこに慣れが生じて何か虚しい感じがしたり、面白くないなと思ったりします。そのストレスがない生活に、いつもと違うストレスが生じると、それが大きく思えてしまうこともあります。

さらに逆に、ストレスに囲まれて生活している都会の人が、ストレスの無い田舎)に行くと、不安を感じることがあります。これもストレスです。

つまるところ、ストレスが少ない環境で生活していても、ストレスが大きい環境で生活していても、環境が変わればストレスとなるのです。

南国の海辺はストレスフリー?

日本人の大半は冬になると寒くなる地域に住んでいます。よくストレスが無いイメージを思い浮かべようというレッスンがあります。その典型が常夏のビーチです。日本人にとって温暖な地域の海辺は憧れの象徴だから、広告が作りだしたイメージ通りにストレスフリーと刷り込まれています。それをそのまま信じることができればその人はかなりの幸せ者でしょう。

ストレスは避けられない

生きているうちはストレスというものはいつやって来るかわからず避けられません。自発的にストレスを招く環境に入っていくこともあるでしょう。ストレスがやって来た時に、いかに体の反応をやり過ごすか事前にアイデアを持っていたほうが心強いでしょう。

同じ出来事でも人によって苦楽が分かれる

どこの時点で学習したのかわかりませんが、人は同じ刺激があっても喜ぶ人、嫌がる人、怖がる人、怒る人といろいろです。ですから同じ出来事でも喜ぶ人がいると思えば、苦に思う必要性はゼロかもしれません。

ストレス対処法

例えば、私は英会話教室に行くことが毎回ストレスでした。なぜなら先生が何を言っているのかわからなかったからです。それを自宅での単語学習をすることによって安心感を得られるようになりました。勉強や練習は自分の努力によって変えられるストレスです。こんなのストレスのうちに入らない!?

パーティーでのストレスは会話です。雑談ができないと話になりません。会話する能力はパーティーで必須のスキルですが、最初のうちはそれができない人もいるでしょう。そもそもパーティーという機会が少ない人には学習の機会も少ないかもしれませんね。事前に映画などを見て動画で覚えるとよいかもしれません。

解放感を味わうにはストレスは必要

あ~助かった!などという言葉を聞いたことがあるでしょう。ストレス状態から解放された人の安堵の言葉です。つまり、安心感というのはストレス状態があって、それから解放されてこそ感じられるというもの。普段から安全な環境に浸っている人にとっては、よほど器用に生きている人以外は慣れが生じて不満や不安を抱いたり、有難みを忘れてしまいがちです。安全な日々を過ごしている人は、怖いドラマを観たり、刺激的な体験、危険な山登りをしてり、つまりストレスを無意識的に求めるものなのです。

ストレスに対応するには?

人生で何度も起こるストレスに対処するには、ストレスを受けた時に自分の体はこのように反応して、何時間後にどうなって、何時間後に落ち着くということを知っていると驚きません。

そして、自信を喪失する前に少しでも特技を身に付けておくことがストレスに対する備えになります。

ストレス時にしか考えないこと

自分の傾向として、ストレス状態の時にしか考えないことがあります。それは生きることや孤独についてです。何のために生きるのか、という問題についてはもう何度も考えたのでもう考えることはありませんし、他の人と比べたら人間失格かなと思ったり、孤独な状態で長生きしたいとも思いません。努力して目標をひとつでも叶えたいとか、高齢になったら真の幸福なんて孫ができた人にしか存在しないんだ、などと、なんだか人類普遍の内容ばかりです。

ストレスの本質

ストレスの本質は、動物園のサル山と同じです。力でねじ伏せられた最下位の猿ほど毛並みも悪く、ストレスで禿てます!つまり、その集団で餌を持ってる順にストレス度が違うのです。下の者のストレスが強くなりすぎると逆転劇が起きたり、世の中が常に戦乱状態にあるのはストレスが原因です。貧しい国ほど内紛が多かったり意地が悪い人が多いのはその国に餌が無いからです。

いくら平等といっても、それは餌がある社会でしか通用しない価値観です。全員分の生きる糧がなければどうなるかは明らかです。

つまり、古代ローマ市民のような絶頂期がない限り、ストレスのない社会はあり得ないということです。

ストレスフリーでいられるのは裕福層か、頭の中がお花畑の状態の人だけということです。

ストレスの原因は他者からの疎外

人がなぜストレスを感じるかというと、やはり迫害への恐怖からだと私は思います。日本では貧困や、結婚していないこと、出自の問題や、人種が迫害の原因となり得ます。そこから這い上がって強者になれるのはごく一部の人間だけです。他者から疎外される原因は、やはり、お金の問題が一番関係していると思います。

ストレスからは逃げられない!

では、頭の中をお花畑にするしか選択肢が無い私たちはどうすればよいのでしょうか?何かを妄信して頭の中をお花畑にできれば永遠に目覚めたくありませんよね。そのために宗教がありさまざまなトラブルを引き起こしています。お金を稼ぐ能力が無ければ宗教への逃避しか逃げ道は無いと思います。だからあんなに騙されている人がたくさんいるのです。生きるのがつらいから甘い言葉にすがろうとして騙されるんです。

あるいは、自らストレスを極めて我が物にするという選択肢もあると思います。つまり、何とも思わないようにするスキルを身に付けるのです。