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岡潔 情緒とは何か

岡潔 情緒とは何か
岡潔 情緒とは何か

岡潔(1901-1978)は日本の数学者です。岡は大阪に生まれ1919年に京都帝国大学に入学し1923年に数学に転向して1924年に卒業しました。11929年から3年間フランスのパリに留学して帰国しました。1936年から1940年の間にをクザン I・II 問題を解決して発表しました。1940年に京都帝国大学で理学博士号を取得しました。1940年から1969年の間、奈良女子大学の教授をしていました。

数学で顕著な功績を修めると同時に、彼は哲学研究を行い情の存在を発見しました。このページでは「岡潔思想研究会」の講演記録を参考に、彼の言う情緒とは何かについて考えたいと思います。

情緒

」「真情」「情緒」は岡潔の哲学の核心です。明治以前の日本人にあって、それ以降の日本人に欠けているものと岡潔は指摘しています。一般的な「感情」といえば、愛や優しさなどといった言葉で形容されますが「情」とはそれらの感情とは別の概念です。

一方でデカルトは感情的なものを退化した人類に見られる劣ったものとして見ています(※この人は理性主義です)。

岡潔は感情ではなく情緒こそが人間の根源のところにあると考えます。

感情

感情とは西洋の概念であり心の表層にあらわれる感覚を言語化したものです。イエス・キリストの愛も岡潔によれば「感情」のひとつに含まれます。ここでは一般的な喜怒哀楽、そして細分化して表現される種々の感情が含まれます。

情とは小川を流れる水のようなもので、この宇宙すべてに存在していると岡潔は言いました。研究会の記録によると、人間の精神は10段階あり、情が最も深いレベルにあると岡潔は考えました。彼の考えによると、西洋の考え方で認識できる心とは「五感」「感情」「知識」「意思」「意識」「無意識(エス・リビドー、岡潔の造語のマナ識)」の領域までとしています。それを第一の心(前頭葉=自我)と名付けます。

岡潔は第二の心の存在(頭頂葉)を発見し、情・知・意に加えて「集合的無意識(ユング心理学の用語)」の下に「真如(仏教用語)」があり後頭葉に「真情(岡潔の造語)」があるとしました。

西洋人が無意識までを自分だと思っているのに対し、日本人は真情までを自分だと思っていると岡潔は分析しました。

道徳

そして道徳は西洋哲学の法や倫理ではなく情だと岡潔は述べています。幸福についても一般的な快楽ではなく情のことを幸福と言っています。人だけでなく動物でさえも情というものがあるので信頼してお互いを支え合うというのです。情に従えば人を傷つけることもなく、情とは儒教の仁に相当するものでもあり、美でもあるのです。

彼の言葉からは「情緒=情=真情=仁」となっておりこれらの文字を同じ意味で使っていることがわかります。儒教の仁の実践は形式的で本質を伴わないものになって政治の道具に使われていると岡は批判しています。

情は濁る

岡潔によると、情は時に濁るものであり、戦後の日本人の情は濁っていると嘆いています。つまり心が汚れているのです。荒廃した日本人は、もはや戦前の日本人ではありません。西洋の知識と資本主義を取り込んだことで心が醜く汚れてしまったのです。そして情が美しい人のことをいじめて社会から排除してきたので日本人はますます日本人でなくなってしまいました。

応神天皇

そして、日本人の心が腐敗していったのは応神天皇からであると岡は指摘しています。おそらくこの辺りから大陸の文明が皇室とともに持ち込まれたので中国と朝鮮の「知」を偏重するあまりに「情」が無視されていったと彼は分析しているのかもしれません。日本の中国化・朝鮮化はこの頃よりはじまったということでしょうか。

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岡潔と小林秀雄の対談本「人間の建設」を紹介したいと思います。少し古い文体ですが現代にも通じる内容の対談が行われています。おすすめしたいです。

考察

数学者であり哲学者の岡潔が言う情緒とは「(たとえ極悪人であっても)他人のために痛む心」のことであり「思いやり」であり「(極悪人をも哀れむ)ほんとうの優しさ」であるというのが彼の説を少し学んでみただけの私の結論です。

私は哲学のような難しいことはなにひとつわかりませんが、ニュースを聞いたときに痛む心のことが情緒なんだと思いました。要するに、心が痛まない人は情緒が退化していると岡潔は嘆いているのです(理論的にはデカルトのほうこそ退化した人類であるといえますが、岡はそのような考えを好まないでしょう)。

現代は岡の言う退化した精神であるほうが有利に生きられる世の中です。それと同時に世界がどんどん壊され破滅に向かっているのも人心が荒廃してしまった証と彼は考えているようですね。

もしかしたら何万年も後には人は単なる野生動物にまで退化しているかもしれません。

日本人の処罰感情

私たち現代日本人の多くが、悪いことは悪いことで罰せられなければならないものであり同情してはならないものと小学校などから親や先生に刷り込まれてきました。遅刻しただけで罪となり、それに見合わない攻撃が行われることもしばしばです。大河ドラマでも「ならぬものはならぬ」という決め台詞がありました。司法制度でも悪いことをした人は大した更生の機会も教育も与えられずに野に放たれ、自称善良な市民による拒絶という脅威に晒されています。

これらの無実の人々に対してすらハエ叩きが行われるような情け容赦のない文化は中国・朝鮮からもたらされたものであって、岡潔にとっては日本人の心ではないのでしょう。そのルーツが朝鮮半島や中国に色濃く残っていることは現代の隣国を見ても明らかです。

岡潔の理論によると、私たちが堂々と日本人であると言えるのは、中韓や西洋の害を消した時といえましょう。その真実性はさておいて。

アメリカの場合

米国では死刑囚であっても弁護によって死刑を免れるケースが多々あります。それだけ凶悪犯罪が多いということはさておき、日本では一度極刑になると取り消されることはありません。日本の高い有罪率(99.9%)は裁判で内容がよく吟味されていないことを証明していると思います。米国では冤罪(証拠がないのに投獄されること)がかなりあることが明らかとなっていることからも99.9%有罪はあり得ないことがわかります。もしかしたら日本人の裁判官の情緒が不正な判決を導いているのかもしれませんね。

情緒と甘え

私は岡潔の情緒を調べているうちに土居健郎の「甘えの構造」を連想しました。岡の言う「情」と土居の「甘え」は一体何が違うのでしょうか。

「おばあちゃん大好き」「お父さん大好き」「お母さん大好き」「先生大好き」「猫ちゃん大好き」「何々大好き」と子どもやいい年の大人が言った時の幸せな感情は「甘え」であると私は思います。

それは子ども(大人子ども)が依存対象に援助を求める姿です。韓国ではそんな言い方はまずしません。あるとしても「オンマ(韓国)」「ママ(中国・イタリア)」「マミー(米国)」など子どもが親を呼ぶときの一瞬の感情だと思います。

例に挙げた肯定的な感情の場合は問題ありませんが、嫌な感情を相手にぶつける時は最悪な事態が起こります。

この対象への純粋で幼稚な気持ちが大人になっても抜けずに(忘れられずに)あらゆる対象に向かって表現することがDVやクレーマー、ハラスメントなどを含む暴力の原因であると私は考えています。

お客様に対して幼稚な発音で「いらっしゃいませ」と言わされる女性を見たことの無い日本人はいないと思います。それを望んで従業員にさせたのはオジサンやお爺さんです。オジサンが売り子の女性を遊女か本気で勘違いしている日本人も見たことがあるでしょう。

私はこれらの現象も情であり、西洋人にも一般的に見られる情緒であるように思います。情が磨かれていない例であるように思います。

熟考と情

人の気持ちを思いやるという行為は(極悪人を含む)相手のことについて深く考えた経験がないとできないことです。それには窮状に対する想像力と気持ちの理解力が必要です。つまり考える力のない人に苦しんでいる人の気持ちはわかりません。

しかし人を思いやるのに学歴や知識の量は関係ありません。本当に賢い人とは、学歴や職歴を持つ人のことではないのです。

武田信玄は情の厚い人であることがわかります。上杉謙信も同じように情の厚い人でした。二人は互いのことを思うことで敵同士でありながら理解し合えたのです。そこに深い情があったことは言うまでもありません(男色も関係していたかもしれません)。

他者の心理を推察する習慣は何も日本に限られたものではありません。韓国人も中国人も、西洋人も同じです。だからこそ小説が書けるのであって、情の認識は岡潔が言うような日本人独特のものではないと私は思います。

情緒=魂を磨く

19世紀ごろの西洋の哲学者や文筆家も、岡潔も情緒を磨くことをすすめています。それは魂をも磨くことであり、一般的な言葉でそれを自分磨きと言います。

しかし残念なことに現代では日本人のほうが薄情であることがデータで示されています。日本は世界で有数のトラブルの際に他人を助けない民族になってしまいました。民心の荒廃が出生率や結婚率、虐待件数などにも退廃した日本人の姿が表れているようです。

注意点

この記事はYoutubeやウェブページから知った哲学者岡潔のことを私なりに理解するために書きました。情について理解できなかったので、色々調べてわかった風なことを書いているだけであります。実在した岡潔の考えをしっかり解説しているわけではありません。

確かに西洋人は仕事と友人の人間関係を明確に区別しています。友人に対しては思いやり厚く、仕事の人間関係に対してはその場限りです。しかし、日本人は気に入った人に対しては公私の区別をしない「情」はまだ田舎においては生きています。

日本人はいつまでたっても恩人に対して「情」を持っているのです。それを西洋人は迷惑に思ったりバカにすることがあります(※私の実体験です)。その事実からは岡潔が西洋人が情ではなく理性で人の重要性を区別している説が当てはまります。

だからといって西洋人の底が浅いなどと言うのは間違っています。情動を克服していることに対して彼らは誇りを持っています。カントは感情的な日本人やアフリカ人を退化した人類として見下しました。

となると、西洋人の「愛している」は付き合っているから「愛している」のであって「情緒的に愛している」とは違うかもしれません。「タイタニック」は間違いなく純粋な「情」によるものではありますが。

韓国や中国ドラマでは確かに「仁」を重視していることがわかります。特に韓ドラでは「仁」と「情」が混ざったような強烈な心理描写がありますが、中国ドラマでの「仁」は命がけで果たすことがあっても感情的にはなりません。

果たして情緒を磨き、感情に敏感であることがよいのか私にはわかりません。あくまで私が体験したケースなので、みなさんも体験してみるとよいと思います。

アラン幸福論から名言をいくつか解説します

アラン幸福論

自らの幸福について考える時、それが何かわからないことがあります。幸せの定義も人それぞれ違っていてこれだという決定的なものが見当たりません。ここではアラン「幸福論(1925年)」より印象に残った名言をいくつか紹介したいと思います。

アラン(1868-1951)はフランスのノルマンディー出身の哲学者です。本名はエミール=オーギュスト・シャルティエです。アランはペンネームです。彼は哲学教師をしつつギリシャ哲学などをもとにした独自の思想を打ち立て意思することで救われると考えました。

アランの幸福論

ここではアランの「幸福論」エッセンシャル版からいくつか興味深い名言を引用いたしました。

すべての道は正しい道である

誰も選択などせず、ただみんな立ち止まらずに歩き続けている。しかも、すべての道が正しい道である。人生の極意は・・・しっかりやり遂げることにある。自分がそうしたいと思えばどんな運命もよい運命だからである。

アラン幸福論 宿命

アランのこの言葉は生き悩む人々までもを肯定しています。今困難に直面していても、やり遂げることはよいことだと言っています。

私たちはうまくいっていそうに見える他者と自分とを比べ、劣等感を抱いたり不満に思ったりします。人は他人が持っているものが本能的に欲しくなるのです。しかしそれらを望んで手に入れるためには個人の努力だけでは達成不可能です。一番はおろか、二番や十番の座でさえ手に入れることが困難なのです。

そのような月にある餅のようなものを求めてすべてを失うよりも今を堅実に生きるほうが幸せなのは明らかです。

いらないものは払いのける

自分の憂鬱など認めないことであるが、なんでも容易に信じないことの本質である。自分をまやかして予言のしるしをありがたく思うようになると、世界はたちまちわたしたちの目前まで生い茂り、その存在を誇示するようになる。

予言者の魂

私たちが生活しやすい環境は、木を伐採して雑草を取り除き、食糧などを作って人工的に整えられている場所です。心も放っておけば雑草だらけで木々が生い茂るように鬱蒼としてきます。憂鬱の木は取り除いて栄養の種を撒きましょう。要するに人の言う事、特に権威ある人の言葉を安易に信じないことが幸せになるコツだと言っています。

権威ある言葉は時に人を無力化して判断力を弱め権威に頼らせることを目的として作られています。例えば何々しないと悪いことが起きる、何々すればダメ人間になる、などという類の言葉です。この類の言葉は宗教家や詐欺師、権力者がよく使う常套手段です。彼らの言葉を信じてしまうと、人は彼らのような人間に服従してしまいます。

人生を切り開くには自分を縛る思い込みの言葉を刈り取って挑戦します。

欲しいものは、自らとりにいく

人はだれでも、自分の欲しいものを手に入れるのだ。若い人たちはこのことについて、誤った理解をしている。彼らは、天の恵みがあることを祈って待つことしか知らないのである。ところが、天の恵みは空から降ってはこない。

アラン幸福論 意欲がある人々

昔からの慣習で、現代人の私たちは親や祖父母がそうしてきたように毎日お願いごとを神様に祈ります。そして無欲でいることを押し付けられ、無意識のうちに祖父母の価値観に従って「(最低限の健康と人間関係など以外に)何もいらない」と思いがちです。

しかし現実は自ら意欲して行動した人だけが欲しい物を手に入れています。健康を維持する体力ですら、毎日運動しないと手に入りません。山の上から景色を眺めるためにできるこは自らの足で登ることなのです。

何もせずに生きられるのは資産がある人だけです。その人のご先祖ですら必死で努力してきたのです。私たちのほとんどは健康と引き換えにしてでも富を手に入れる必要があるのです。

自ら求める

この世の中は、自ら求めようとしない人には、なにも与えてくれない。

アラン幸福論 意欲ある人々

なにもせずに神に祈っているだけでは小麦すら与えられません。自ら求める人とは、どんなことがあっても粘り強く、途中で投げ出さずに求め続ける人のことです。

世界は食料を獲得した者だけが生き延びるようにできています。それは人間についても同じです。その食糧を手に入れるためには貨幣が必要です。頭をよく働かせ、身体を動かすことしか幸福に至る道がないのです。

まとめ

アランは「行動することで幸せを手に入れる」と述べています。そしてどんなことでも感謝して受け取ることをすすめています。「希望から理由が生まれ、予兆から成功が生まれる」ので「どんなことでも縁起のよいことや明るい兆しにしてしまおう」と楽観主義を提唱しています。

心から希望を持てば、あらゆることが幸せの源になる

アラン幸福論 不機嫌

そして、どんな小さなことでも努力することで結果はかわります。

毎日少しずつ庭の草取りをするだけで庭全体がきれいに保たれるように。

(物質的に豊になれても)幸せは自分ですべてつくりだしていかねばならない。自分自身の中になんの富も持っていない人は、待ち構えている退屈に、やがて付け入られてしまうのである。

アラン幸福論 期待

日々の生活の中で自ら進んで取り組みたくなるような課題を見つけ、希望を持つことであきらめかけていた壁が崩れ、雑草が伸び放題となっていたところに野菜や花がきちんと並んでいることに気が付くのアランは言いました。

彼は繰り返し自分で行動することを進めています。自分で行動したところに喜びがあるというのです。受け身型の楽しいは中途半端であり、自ら求めて自分のもとにしてしまうことが楽しいそうです。

また、人からもらう幸せはまぼろしのようなものであり、そのような幸せはそもそも存在しないと射ています。しかし、自分でつくる幸せはまぼろしではなく学ぶ過程の中で得られるものであり、一生学び続けるものです。

知識が増えるほどもっとたくさん学ぶことができ、その喜びは減るどころか上達するにしたがって大きくなるのです。

幸せになるための努力をする

不幸になることは難しくない。難しいのは幸せになることである。だからといって、それはあなたが努力しない理由にはならない。その逆である。ことわざにあるように、やりがいのあることは何でも難しいのだ。

アラン幸福論 大げさな熱弁

私たち日本人のほとんどは勉強することに苦痛を感じます。本来の私たちは怠け者で難しいことは考えたくないのです。しかしアランは幸せになることは難しいが努力する必要性を説いています。

幸せになることは難しくても、希望を持つこと自体は簡単だとアランは言っています。

不機嫌を気にせず苦悩を自分と切り離して考え、人生をとことん楽しみ、自分に優しくして微笑み、自信をもって、上機嫌できることや、考えをぐるぐるめぐらせるより無頓着でいること、頭を空っぽにすることなどを幸せになるコツとして教えています。

幸せになることが難しいと言ったアランは、別の章では「幸せを願う気持ちがあれば、すぐに幸せになれる」と言っています。

感情は決まって悪いものである

悲観主義は感情からくるもの、楽観主義は意思からくるもの。ただ気分のおもむくままに生きている人はみんな悲しい。いや。悲しいということばでは弱すぎる。なぜならそういう人は、やがて怒り、激怒するからである。

結局のところ、よい感情というものはない。感情は、正確に言うと、決まって悪いものである。だから幸せはすべて、意志と克己心とから生まれるのである。

アラン幸福論 誓わなければならない

どうやらアランが言う「幸福」とは普通の人が考える幸福とは違うようです。多くの日本人は感情を基準に物事を判断しています。だから幸福度が低いのかもしれません。

感情の種類

人が持つ基本的な感情は次の6種類です。

  • 幸福
  • 中間
  • 怒り
  • 悲しみ
  • 驚き
  • 恐怖

ポジティブな気持ちは6種類の中の1種類しかないのです。しかも幸福を予期しているときにドーパミンが出て、幸福を手に入れるとドーパミンが出なくなるというのです。つまり幸福感を持続させる秘密は期待すること、希望すること、というわけです。

要するに、人がスポーツなどのゲーム性の高いものにハマる理由がこれです。結果がわかるまでの過程で快楽物質がドバドバ出てくるので面白いのです。演劇鑑賞もまた結末がわかるまでは続きが気になりますよね。旅行なども含めてお祭り感のあるものはすべて終わってみると祭りの後の寂しさがあります。

私からのアドバイス

ネット閲覧がやめられないのも楽しいからです。本を読むのも楽しいから、あるいは何かを期待しているからです。自分でも気が付いていないと思いますが、楽しいからスタバに行ったり、パソコンをしたり、勉強をがんばったりするのです。

試しに頻繁にやっていることをしばらくやめてみてください!スタバ通いをやめたり、趣味をやめてみたり、読書をやめてみたり。別の楽しみが見つかることもあったり、また同じことをやりたくなると思います。

退屈に感じるのは慣れているから楽しみが薄れた気がするだけなんです。

例えばある一冊の英単語集をマスターしようとして何度も読むと、最終的に10分ほどあればできないところだけを1冊やり遂げられるようになります。その時の感覚に学習しはじめのような苦痛はなくスラスラと読めるようになっています。これが慣れです。楽しいことであっても何度も繰り返すうちに楽しい感覚が無くなってくるのです。