友達と友情について

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友達について悩みは尽きない。友達は多いほうがいいか、少ないほうがいいか。頻繁に会うほうがいいか、メールやSNSでメッセージを送るほうがいいか。友人がいれば孤独ではなくなるのか。親友とはどういうものなのだろうか。

友情について

五木寛之の「孤独の力」という本によると「友情という孤独」という見出しのエッセイがあった。そこには五木先生には親友も友達もたくさんいたが、年に一回言葉を交わすか、何年に一回どこかで会うか、できるだけ親密にならないようにしてきたと書かれていた。

一般的に友達付き合いというと、学校かどこかで毎日のように出会う生活があって、別れた後は年に一回会い、その後は年賀状やオンラインでのやりとりが続いた後に音信不通になっていくものなのだろう。

五木先生は友達と毎日顔を突き合わせてべったり暮らすことはしないとおっしゃっている。そこには「人間は結局、最終的に独りなのだろいう気持ちがずっとあったからだろう」と書かれていた。

友人より会う頻度の多い知り合い

実際のところ、小学校や中学校や高校などの学校でできた友人は成人後に会うことは滅多にない。同じ町内に住んでいれば偶然会うこともあるだろうが、基本的にそれは稀なことだと思う。大人になってからは友人よりも職場にいる仲間や上司のほうが会う頻度が多く、あるいはどこかの集まりに定期的に長年参加しつづけていれば友人よりも会う頻度が多くなる。

友だちよりも会う頻度が高い人は友人ではないのだろうか?少なくとも私たち日本人は何度も食卓を囲んだ仕事仲間でさえ友人では無いと決めつける。そして職場を去る時には親しかった人たちと二度と会わない決心をする。

友人よりも会う頻度が多かった人のことは、友人ではないのだろうか?友より自分のことを知ってくれているその人たちはあなたにとって何なのだろうか?こんな疑問が湧いてきた。

友情とは

友情とは何か。一生ものの絆と考えるのは甘い。五木先生は関係が濃密になり過ぎると裏切られることがあることを指摘しておられた。友情が薄ければ裏切られても捨てられても傷は浅くて済む。

若い頃は友情は死ぬまで続くかのように思われる。だが現実はそうではない。

かつての友人とは人生を共にするわけでもなく、生活も住まいも離れている。たまに会うか、旅行に行くような仲であればまだ幸いだろう。しかし友人や自分の人生がいつ転落して笑えない状況になるか予想がつかない。

貧しくても親しく付き合ってくれるような友人がいればその友こそが宝といえるだろう。現実の日本ではそのようなことはどれくらいの頻度であるといえるか確かなことはわからない。

では一体友情とは、友とは何なのか?

友人は孤独を癒してくれない

世の中を見渡すわけではないが、世間知らずな私にもこれだけはわかる。友達は物理的な孤独や寂しさを永遠に紛らわせてはくれないと。成人後に小中学校の友達と会うことなどほとんどの人はないだろう。高校の友人とは会っても年に何回か、あるいは数年に一度、数十年後ということになるだろう。

要するに成人後の日々の生活に友達が毎日自分の傍にいるわけではない。どこかに行けば友達に会えるという生活は無くなるのだ。友達に会うためにはお金がたくさんいるのでそう何度も会えるわけではない。だから、日常生活で感じる孤独や寂しさを友達が癒してくれることは滅多に無いのだ。

それでもいないよりはいてくれたほうが有難い。

それが友達なのだろう。

定住型の友情は達成困難

友人と会う頻度を高めるためには、お互いが生涯同じ地域に住んでいることが前提となる。テレビで西欧の街歩きを取材する番組では昔から続いている友情は同じ村に住んでいる人と決まっている。歩いて行ける距離だ。イタリアやイギリスでは定住型の友情を描くドラマやドキュメンタリーがある。しかしこれらの国々でさえ、地域に生涯留まれるのはそこで職を得られた人に限る。

それは友情か?

有名人やお金や美貌、何らかのスキルを持って成功している人のSNSにはたくさんフォロワーが付いている。彼らの多くは友達になる機会を狙っていて優しい言葉を投げかけ反対派を激しく攻撃する。それは本当に親しみからくるフレンドリーな気持ちなのだろうか?そうではないだろう。彼らは親しくなれる隙を狙っているのである。日常では家族や友人のことを心配しないくせに有名人がちょっと鼻水を垂れただけで心配のコメントが大量に押し寄せるのだ。力のある者に胡麻を擦るのは動物としての本能であり、彼らは皆有力者の腰巾着になりたいのだ。

だとすれば、その人が有名になってからできた友人は本当に友達なのだろうか?

上下関係のある友達

また、同性の友達同士が二人一組で会話をしている様子に偶然遭遇することがある。聞き耳を立ててみると二人の間には上下関係があり、身分の上の友人が身分の下の友人に一方的に愚痴を言っているだけである。そんな光景にこれまで何度も遭遇した。それは本当に親しい友人関係といえるのだろうか?どう見ても親分と子分の関係にしか見えない。だが、本人たちは友達だと信じているのだろう。

あるいは数人組の友人がいたとして、中心にいるのは特定の人だけというのもある。それもまた主従関係ができているのだろう。中心人物との二者関係を結んでいる子分が何人かいるだけなのだ。それは果たして友人と言えるのだろうか?しかし日本では友達ということになっている。子分同士の嫉妬の火花が散っていたとしても。確かに主従関係がありその群れが非日常で続いているのであれば、単なる群れだとしても日本語では友達ということになるのだろう。もしかしたら単なる動物の群れと友情の区別がついていない人が多いのかもしれない。

国で異なる友達の定義

先程日本人同士で上下関係のある友人のことを述べたが、海外では友達の定義が異なる。

韓国のチング

韓国では対等に友(チング)として話せるのは同じ歳に生まれた同性同士だけだと言う。1つでも歳が離れていれば先輩後輩として主従関係が生じる。先輩には親しい間柄でも必ず敬語を使わないといけない。そんな韓国人にとって友達とは同じ歳の人だけなのだろうかと疑問に思う。そもそも友だちという概念がこれまでなかったのかもしれない。

アメリカのフレンド

一方でアメリカの友(フレンド)は幅広い。ほとんど会ったことの無い人でも相談関係になればフレンドと言う。日本人が言う友達はアメリカ英語でベストフレンドに相当する。私のアメリカ人の知り合いには何人もベストフレンドがいる。

中国の朋友(ポンヨウ)

中国でもまた友達の定義が微妙に異なるようだ。友達というと、ずけずけと物を言ったり遠慮をしない関係のことを指す。中国人の物言いは日本人がきついと感じるくらいはっきりしている。日本人では友達に対しても気遣いや遠慮があったりして距離がある場合がほとんどだ。本当に貴重な生涯の友のことを挚友(チーヨウ)と言うらしい。

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