幸福になるたった一つの方法

dollfine
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幸せになりたくてこれまでさまざまな思想を学んだ。というよりは助けを求めて貪り読んだ。だが自分に合う永続的な見地は見いだせなかった。つまり心から信奉できる考え方はなかった。仏陀のように欲を捨てることはできなかった。ジーザスのように人を愛することもできなかった。ポジティブ心理学のように物事を楽観的に解釈することもできなかった。気が付けば生きることすらどうでもよくなった。生きることそのものへの執着はなくなった。でもそれすら私の心的真実ではない。見栄えをよくするための嘘だ。実際に幸せな人がいることから自分も幸福になれる方法があると思った。

夢や希望

私の望みといえば、お金、名誉、安定した暮らし、健康、何でも言える人間関係など、他の人とそう変わりが無い。いわゆる「こんな暮らしだったら安心だ」という環境キットのことだ。世の中で起きているさまざまな出来事は常に夢と希望に関係している。

でも、それらは容易に手に入るものじゃない。今の世の中の仕組みでは生まれながらに大金持ちの相続人か、記憶力と世渡りがうまい人か、人並み以上に努力して成功した人と、その妻子のどちらかだ。

苦しみ

人生に苦しみは付き物だ。そのほとんどが他者との関係か、病気によって生じる。友人は多ければ多いほど良いと私は思う。家族も多いほうがよいと思う。大人になってから友人を作ることは難しい。都会では簡単に友人を作れるけど縁が切れるのも早い。職場で仲間がたくさんいても退職後に会うことは無い。大学の友人も遠くに別れてしまえば一生に一度会えたらよいほうだ。

幸せ

幸せはどの生活水準でも発見することができる。でも心から望んでいることは手に入らない。幸せとは天気が穏やかで良かったとか、その程度のことらしい。風呂が気持ちよかった、ビールがおいしかったなど。誰々と一緒にいられてよかった、などなど。

瀬戸内寂聴さんは人は幸せになれると説いておられた。だけどネットには幸せはなるものではなくあるものだという人もいる。幸せになれないという清水ミチコさんもいる。ほんと、混乱するよ。

でもね一番の幸せは言いたいことを言ったら別の見解を聞かせてくれる相手がいることだと思う。

幸福の条件

人は自分で幸福の条件を決めている。それによって快不快の表現を自ら許可している。人が何を幸福と思うかについては千差万別だ。

信じること

人は何かを信じている。救済だったり来世だったり、幸せになれることだったり。さてはて、信じ続けるには人生はあまりにも長すぎる。疲れてしまわないかい?でも人は何かに頼らないと不安になる生き物。この世にいない存在に対してならいくらでも甘えられるから宗教が作られた。

祈ること

子どもの頃から困った時に私は祈るようになった。神様仏様お助け下さいと。どこの神様でもいいから助けてほしいと思う。まだパンをくださいと祈ったことはない。心安らげるものならなんでも与えて欲しいとすら思う。嫌なことから遠ざけて欲しいし恵みは多いほうがいい。

永遠のすれ違い

人と人とが本当の意味でコミュニケーションをとることはできない。母娘だけは例外で濃密な日々を過ごして来た場合は意思疎通ができる。母息子では残念ながらまともな意思疎通はできないと思う。なぜならそういう生き物になるように作られているからだ。女性同士の意思疎通もそこそこ可能だろう。だけど雄という生き物は表面的なやり取りしかできない雰囲気がコミュニケーションの邪魔をしていると思う。

幸福度ランキングとコミュニケーション

おそらくは、幸福度ランキングが低い国ほど意思疎通が困難だと思う。理由は自由な感情表現が国によって制限されているからだろう。それは数字が示している通り不幸なことで苦しいことなのだ。その国でいくら心を健やかにしようとしても頭脳が病んだ社会では実現不可能だ。

楽しく生きること

誰もが毎日笑って好きな人に囲まれて暮らしたいと思ってる。そして実現する困難さに直面している人の多い事か。その原因は嫌いな人と結婚するからだ。家庭環境が良くないせいだ。労働環境が悪いせいだ。好きじゃなくなったら別れないからだ。嫌になったら離れないからだ。

幸福度ランキングが高い国では安心して離婚できる制度がある。自由で開かれた豊かな社会では努力して家族関係を維持する必要などこれっぽっちもない。

他者とそこそこ楽しく生きるためには平均的な収入が必要だ。

幸せになれるたった一つの方法

幸せになれる方法は一つではない。だけど幸福感を得られる方法が一つだけある。それは今あることに感謝することだ。昔の人はパンか米と水があるだけで神に感謝していた。常に飢えている世界中のほとんどの人たちにとっては食料があること自体が幸せだった。当時はほとんどの人が文字を読めず学校すらなかった。学校ができたときは学校に行けることが幸せだった。酷い病に苦しんでいた人は、日々少しずつ楽になっていくこと自体が希望であり幸せだった。

つまりすぐには得難い欲求が満たされることが幸せになれる確実な方法だ。

幸福とは条件である

これらのことから、幸福とは比較と条件であると断言できる。何か苦しい状態があって、それが何らかの原因で相対的に軽くなる。そこに人は幸福を感じるのだ。

人に善いことをすると嬉しくなったり誇りに思うのは、そうでない自分との比較だ。家族以外の人に話しかけて気分がよくなるのも、そうではない自分との比較によるものだ。

つまり以前の状態との比較に脳が喜びを感じている。その条件については次のような基本的欲求がある。

幸福とは欲求が満たされること

要するに幸せの本質は現状が改善されて欲望が満たされることなんだ。その例をあげてみたいと思う。

  • 健康状態が改善されたこと
  • スキルを身に付けたこと
  • 気分や体調が前よりよいこと
  • 人と話すこと
  • 食べるものがあること
  • 着る服があること
  • 毎日お風呂に入れること
  • 勉強や趣味に没頭できること
  • 家族がいること
  • 親戚がいること
  • 仕事があること
  • 生きていること
  • 天候が穏やかなこと
  • 自然を見て癒されること
  • 信仰心があること
  • 部屋が掃除されてきれいなこと
  • 図書館から無料で本を借りられること

などなど、大抵の人が幸せだと思うことはこうした無い事と比較したうでの条件そのものだ。

しかしそれがわかっていながらなぜ毎日ご機嫌になれないのか?仕事や勉強、日々の生活に身が入らないのか?あるいはそれ以下の気分になるのか。

それは心がフラット以下になるようにできているからだ。神経が疲れると気持ちが沈んでしまう。

確かに幸福だと信じ続けることができたらいいのにと思う。

高次の欲求

基本的な条件が整えば、欲望はさらに次の段階に進む。それはマズローの言うような自己実現や所属と愛の欲求だ。これは要するに他の人から認められることを意味する。信頼に値する人間になるということだ。そのためには何らかのスキルの習得が必要となる。これらの幸次の欲求が叶わないから現代人は苦しんでいる。そしてこうした欲望を望んではならぬという自己啓発人まで現れるから邪魔が多いことは言うまでもない。

個別の幸せの条件

人にはそれぞれ好みというものがある。欲しいものはさまざまだ。有名人に会えばご機嫌になれるという人もいるだろう。好きな物を集めることが楽しいという人も。好きなスポーツも人それぞれ。犬が好きな人、猫が好きな人、別の生き物が好きな人。個別の幸せの条件については私がここで述べることはできない。

群れる

人は群れの生き物です。何らかの群れに所属していることは幸せの絶対条件に入ると私は思います。なるべく誰かと暮らした方がいいと思います。

ここに書いた以上の幸せは無い

世の中のどこをどう探してもこのページに書いた以上の幸せは無い。億万長者ですら例外は無い。欲しい物は自分で努力して得るしか無い。うらやましいと思う物があれば得られる努力をするか、あきらめるほか道はない。他人からの愛情も無料では手に入らない。常時ご機嫌でいるためにはその生活水準を維持するお金が必要だ。勉強で身に付けたスキルとお金と社会貢献だけは自分を裏切らない。

幸福感は一瞬

何かを得たと思って生じる幸福感は一瞬の感情だ。何度も思い出して幸福感に浸ることでも幸福感は得られる。大好きな誰かと過ごしたとしても幸福感は永続的なものではない。

幸せなことは毎日記録せよ

幸せだと感じたことは一生物のノートにメモしておくことだ。書き留めていればいつかは宝の山となるだろう。忘れないうちに子どもの頃の記憶も書き留めておこう。その日の食事内容も。

長生きが幸せとは限らない

今ある幸せに気づくと失うことがとても恐ろしくなる。どんなに幸運な人でも幸せは長続きしないようにできている。幸せそうな人生を送って来た人は退職後に内臓を痛めている人が多い気がする。それはまるで好きな食べ物を食べて行きたい場所にたくさん行ったことの証明書のようだ。逆に幸福感を追い求めずフラットな精神で我慢を続けて来た人のほうが晩年は健康だったりする。

皆婚時代のおばあ様が長生きなのは、好きでもない相手と結婚してしたいこともせずに家庭でずっと我慢していたおかげだ。

でもときどき人はこう思う。自由なら人生の終わりも自分で決めたいと。持っていた幸せを失って苦しむくらいなら苦しまない道を選びたい。それこそが本当に安心して自分の人生を積極的に生きられる幸福の権利であると私は思う。

この世界で生きることは本質的に悲しいこと

誰もが幸せになりたいと思うも絶対的な幸せは誰一人として手に入らない。私たちは悲しみと喜びを繰り返して日々生きている。どんなに幸せに見える人でも決して絶対的な幸せになれない。若さは二度と手に入らず、失った日々も戻って来ない。ディズニーランドにハマる人も、酒場で楽しく騒いでいる人も、その時に浮かれているだけだ。

どれほど気分が良くても自分の運命を思うと沈痛で悲しい気持ちにならざるを得ない。ハリウッドスターでさえ幸せではない。そう思うと永遠の幸せなんて存在しないと思わないか?

幸福と不幸は表裏一体

なぜ人は幸福を求めるのか。それは死を本心では不幸と思っているからだ。命は有限であり幸福も減ることを知っているからだ。魂の救済を信じて生き続けるには長すぎる現代、趣味を極めても称賛も褒美も得られず楽しくなくなってしまう。長寿時代のおかげで道徳心のある人が増えて治安も改善されたというメリットはある。そして苦悩もインターネットで共有できるようになったことは喜ばしいことだ。

病を得れば、病が無い状態の有難さを知り、家族を失えば家族がいる状態の有難さを知る。富と名声や権力を得るには幸福感という感情を捨てる覚悟がいる。

何かの幸福を得るには、苦痛に耐えたり何かと交換しなければならない。愛情ある人が家族にいる場合、幸福であると同時にその人を失う苦痛と悲しみは深くなる。可愛く育った子どもが結婚を果たすと親は孤独になり夫婦間のコミュニケーションの問題が浮き彫りとなる。大きな家に住んでいると出費もかなりのものになる。

自己対話の重要性

より幸福な人生を送るためにはポジティブでいることは必須です。そのためには多くの偏見を自分から取り除く必要があります。自分や世の中を肯定することです。ベストを尽くした自分は悪くないのです。

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