友達と友情について

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友達について悩みは尽きない。友達は多いほうがいいか、少ないほうがいいか。頻繁に会うほうがいいか、メールやSNSでメッセージを送るほうがいいか。友人がいれば孤独ではなくなるのか。親友とはどういうものなのだろうか。

友情について

五木寛之の「孤独の力」という本によると「友情という孤独」という見出しのエッセイがあった。そこには五木先生には親友も友達もたくさんいたが、年に一回言葉を交わすか、何年に一回どこかで会うか、できるだけ親密にならないようにしてきたと書かれていた。

一般的に友達付き合いというと、学校かどこかで毎日のように出会う生活があって、別れた後は年に一回会い、その後は年賀状やオンラインでのやりとりが続いた後に音信不通になっていくものなのだろう。

五木先生は友達と毎日顔を突き合わせてべったり暮らすことはしないとおっしゃっている。そこには「人間は結局、最終的に独りなのだろいう気持ちがずっとあったからだろう」と書かれていた。

友人より会う頻度の多い知り合い

実際のところ、小学校や中学校や高校などの学校でできた友人は成人後に会うことは滅多にない。同じ町内に住んでいれば偶然会うこともあるだろうが、基本的にそれは稀なことだと思う。大人になってからは友人よりも職場にいる仲間や上司のほうが会う頻度が多く、あるいはどこかの集まりに定期的に長年参加しつづけていれば友人よりも会う頻度が多くなる。

友だちよりも会う頻度が高い人は友人ではないのだろうか?少なくとも私たち日本人は何度も食卓を囲んだ仕事仲間でさえ友人では無いと決めつける。そして職場を去る時には親しかった人たちと二度と会わない決心をする。

友人よりも会う頻度が多かった人のことは、友人ではないのだろうか?友より自分のことを知ってくれているその人たちはあなたにとって何なのだろうか?こんな疑問が湧いてきた。

友情とは

友情とは何か。一生ものの絆と考えるのは甘い。五木先生は関係が濃密になり過ぎると裏切られることがあることを指摘しておられた。友情が薄ければ裏切られても捨てられても傷は浅くて済む。

若い頃は友情は死ぬまで続くかのように思われる。だが現実はそうではない。

かつての友人とは人生を共にするわけでもなく、生活も住まいも離れている。たまに会うか、旅行に行くような仲であればまだ幸いだろう。しかし友人や自分の人生がいつ転落して笑えない状況になるか予想がつかない。

貧しくても親しく付き合ってくれるような友人がいればその友こそが宝といえるだろう。現実の日本ではそのようなことはどれくらいの頻度であるといえるか確かなことはわからない。

では一体友情とは、友とは何なのか?

友人は孤独を癒してくれない

世の中を見渡すわけではないが、世間知らずな私にもこれだけはわかる。友達は物理的な孤独や寂しさを永遠に紛らわせてはくれないと。成人後に小中学校の友達と会うことなどほとんどの人はないだろう。高校の友人とは会っても年に何回か、あるいは数年に一度、数十年後ということになるだろう。

要するに成人後の日々の生活に友達が毎日自分の傍にいるわけではない。どこかに行けば友達に会えるという生活は無くなるのだ。友達に会うためにはお金がたくさんいるのでそう何度も会えるわけではない。だから、日常生活で感じる孤独や寂しさを友達が癒してくれることは滅多に無いのだ。

それでもいないよりはいてくれたほうが有難い。

それが友達なのだろう。

定住型の友情は達成困難

友人と会う頻度を高めるためには、お互いが生涯同じ地域に住んでいることが前提となる。テレビで西欧の街歩きを取材する番組では昔から続いている友情は同じ村に住んでいる人と決まっている。歩いて行ける距離だ。イタリアやイギリスでは定住型の友情を描くドラマやドキュメンタリーがある。しかしこれらの国々でさえ、地域に生涯留まれるのはそこで職を得られた人に限る。

それは友情か?

有名人やお金や美貌、何らかのスキルを持って成功している人のSNSにはたくさんフォロワーが付いている。彼らの多くは友達になる機会を狙っていて優しい言葉を投げかけ反対派を激しく攻撃する。それは本当に親しみからくるフレンドリーな気持ちなのだろうか?そうではないだろう。彼らは親しくなれる隙を狙っているのである。日常では家族や友人のことを心配しないくせに有名人がちょっと鼻水を垂れただけで心配のコメントが大量に押し寄せるのだ。力のある者に胡麻を擦るのは動物としての本能であり、彼らは皆有力者の腰巾着になりたいのだ。

だとすれば、その人が有名になってからできた友人は本当に友達なのだろうか?

上下関係のある友達

また、同性の友達同士が二人一組で会話をしている様子に偶然遭遇することがある。聞き耳を立ててみると二人の間には上下関係があり、身分の上の友人が身分の下の友人に一方的に愚痴を言っているだけである。そんな光景にこれまで何度も遭遇した。それは本当に親しい友人関係といえるのだろうか?どう見ても親分と子分の関係にしか見えない。だが、本人たちは友達だと信じているのだろう。

あるいは数人組の友人がいたとして、中心にいるのは特定の人だけというのもある。それもまた主従関係ができているのだろう。中心人物との二者関係を結んでいる子分が何人かいるだけなのだ。それは果たして友人と言えるのだろうか?しかし日本では友達ということになっている。子分同士の嫉妬の火花が散っていたとしても。確かに主従関係がありその群れが非日常で続いているのであれば、単なる群れだとしても日本語では友達ということになるのだろう。もしかしたら単なる動物の群れと友情の区別がついていない人が多いのかもしれない。

国で異なる友達の定義

先程日本人同士で上下関係のある友人のことを述べたが、海外では友達の定義が異なる。

韓国のチング

韓国では対等に友(チング)として話せるのは同じ歳に生まれた同性同士だけだと言う。1つでも歳が離れていれば先輩後輩として主従関係が生じる。先輩には親しい間柄でも必ず敬語を使わないといけない。そんな韓国人にとって友達とは同じ歳の人だけなのだろうかと疑問に思う。そもそも友だちという概念がこれまでなかったのかもしれない。

アメリカのフレンド

一方でアメリカの友(フレンド)は幅広い。ほとんど会ったことの無い人でも相談関係になればフレンドと言う。日本人が言う友達はアメリカ英語でベストフレンドに相当する。私のアメリカ人の知り合いには何人もベストフレンドがいる。

中国の朋友(ポンヨウ)

中国でもまた友達の定義が微妙に異なるようだ。友達というと、ずけずけと物を言ったり遠慮をしない関係のことを指す。中国人の物言いは日本人がきついと感じるくらいはっきりしている。日本人では友達に対しても気遣いや遠慮があったりして距離がある場合がほとんどだ。本当に貴重な生涯の友のことを挚友(チーヨウ)と言うらしい。

ニュースメディアは就職氷河期世代を傷つけ差別する

戦争や犯罪、不況や病気などのニュースは人を傷つけます。他人が傷ついている様子を知ると自分も辛くなります。しかしそれ以上に辛いのはメディアが作った差別造語に自分が該当することです。就職氷河期やニート、パラサイトや非正規労働、ロスジェネなど、孤独や死と隣り合わせで日本で必死で生きている人たちを5文字の言葉で表現することに苦痛や屈辱を感じます。誰もが好きで非正規雇用されたわけではなく、非正規雇用制度が作られたため正社員で就職して楽して働ける機会が無かったのです。

就職氷河期世代とは1993年から2005年または2010年から2013年に学業からの卒業を迎えた人々のことです。大卒の2人に1人が就職できず非正規労働をせざるを得なくなりニートやパラサイトなどと言われて差別され人間としての尊厳を奪われ続けています。

就職氷河期世代の厳しい出産事情

結婚と家族をめぐる基礎データ – 内閣府男女共同参画局

このグラフは内閣府男女共同参画局の結婚と家族をめぐる基礎データから転載したものです。ちょうど就職氷河期の出産適齢期となる2010年から2015年の出産事情を描いたものです。一人しか子どもを作らなかった夫婦が2割弱、子どもを産まなかった夫婦を入れると25%近くまで増えました。それに加えて経済的事情で結婚できなかった人を含めるとかなりの氷河期世代が子をなしていないことになります。

少子化の原因

人は幸せなら結婚してたくさん子づくりするのは本能的なものです。だからこの数字は幸せではない人が少なくないこと反映していると思います。確かに日本人の大多数は幸せなのかもしれません。でもその多数派によって傷つけられるのは常に少数派です。5組に1組の夫婦に1人しか子育てする環境が無いことと、5人に1人が貧困層という現実は繋がっているように思えます。

世界の貧しい国々では貧困な人ほど子をたくさん産むイメージがありますが、それは多くの人が貧しいので子どもをたくさん産んでも差別されないからです。しかし先進国では貧しいことは多数派によって避けられる、つまり差別されるので結婚と出産の障害になるわけです。

団塊の世代と団塊ジュニア

50年前の日本ではみんなが貧しい暮らしをしていました。女性は政策や男性により正社員から除外されていましたが団塊ジュニアだけは例外でした。団塊ジュニアは親の職業を面接時に言うだけで就職できました。いい思いができたのは団塊の世代とその子どもたちの世代です。

他の世代がもっと貧しくなれば就職氷河期が救われる

アメリカでは労働者の半分ほどが年収300万円以下で生活しています。それでもあの国は強国を維持しており共産党が台頭することもありません。つまり、マイホームを持って絵に描いたような幸せな暮らしをしているアメリカ人は半数ほどしかいないのです。

これを日本に当てはめてみると、日本はもっと解雇しやすくすべきです。団塊ジュニアのような能力が無くても就職できた人たちが生産性を悪くしています。いい意味で就職氷河期は有能そうに見える人から採用されていったので他の世代と比べても生産性は高いかもしれませんね。

何のスキルも無いのに正社員で働いている無能な人たちをどんどん解雇していって、非正規でも就職氷河期世代を採用すれば救済になると思います。

貧しい国の人はなぜ幸せそうなのか?

富裕国から見ると、一部の貧し国の人たちは幸せそうに見えます。その理由は何なのでしょうか?おそらくそのほとんどの人は宗教の教えに従っているからだと思います。イスラム教やキリスト教は貧しい人に向けた教えです。土着の宗教も生きるために最低限必要な教えがあるはずです。だからその教えを信じているだけで貧しくても幸せなのです。そして自分も周りの人たちも同じ宗教を信じているので共通の話題や価値観が多く安心していられるのです。

参考

不定冠詞と定冠詞と部分冠詞 – イタリア語文法

不定冠詞と定冠詞 部分冠詞 イタリア語文法

イタリア語では単語の前に不定冠詞または定冠詞を置きます。冠詞には男性形と女性形があります。定冠詞にはさらに単数形と複数形があります。冠詞の性は名詞の性と一致します。

不定冠詞

不定冠詞(indeterminativi)単語の前に置いて「1つの~」「ある~」という意味を表します。限定されないもの、不特定なものの1つ、新しく話題に登場するものなどを指して言うときに使います。

男性名詞に付く不定冠詞

母音で始まる男性名詞やその他の男性名詞un
s+子音, z, gn, y, xからはじまる男性名詞uno
イタリア語の不定冠詞 男性形

男性不定冠詞の例

  • un letto (1つの)ベッド
  • un armadio (1つの)クローゼット
  • un giocattolo (1つの)おもちゃ
  • uno specchio (1つの)鏡
  • uno zaino (1つの)リュック

女性名詞に付く不定冠詞

un’のあとはスペースを空けず、次の単語の母音を続けます。un’のアポストロフォはaが省略されていることを意味します。

子音ではじまる女性名詞una
母音ではじまる女性名詞un’
イタリア語の不定冠詞 女性形

女性不定冠詞の例

  • una camera (1つの)部屋
  • una libreria (1つの)本棚
  • una stella (1つの)星
  • una chiave (1つの)鍵
  • un’opera (1つの)オペラ、(1つの)作品

定冠詞

定冠詞(determinativi)は単語の前に置いて「その~」という意味を表します。既に対象が特定された場合に定冠詞を用います。

男性名詞に付く定冠詞

単数形複数形
下記以外の子音で始まる男性名詞ili
s+子音, z, gn, ps, y, xで始まる男性名詞logli
母音で始まる男性名詞l’gli
イタリア語の定冠詞 男性形

男性定冠詞の例

  • il libro 本
  • il dolce お菓子
  • il bagno バスルーム
  • il soggiorno リビングルーム
  • i libri 複数の本
  • i dolci 複数のお菓子
  • lo specchio 鏡
  • lo zaino リュック
  • gli specchi 複数の鏡
  • gli zaini 複数のリュック
  • l’amigo 男性の友人
  • gli amici 複数の男性の友人

女性名詞に付く定冠詞

単数形複数形
子音ではじまる女性名詞lale
母音で始まる女性名詞l’le
イタリア語の冠詞 女性形

女性定冠詞の例

  • la camera 部屋
  • la lavatrice 洗濯機
  • la casa 家
  • la cucina キッチン
  • la storia 物語
  • la posizione ポジション
  • le camere 複数の部屋
  • le lavatrici 複数の洗濯機
  • l’amica 女性の友人
  • l’armadio クローゼット
  • le amiche 複数の女性の友人

部分冠詞

部分冠詞(partitivi)ははっきりと数えられない名詞(液体、素材、材料など)の前に置きます。部分冠詞単数形は一部分や漠然とした量を表しun po’diと同等の意味を持ちます。数えられない名詞の量を表すにはリットルやカップ、グラス、瓶などの単位を使います。

部分冠詞は前置詞diに定冠詞単数形が合体しています。

男性名詞に付く部分冠詞

単数形複数形
下記以外の子音ではじまる男性名詞del(di il)dei(di i)
s+子音, z, gn, ps, y, xで始まる男性名詞dello(di lo)degli(di gli)
母音ではじまる男性名詞dell'(di l’)degli(di gli)
イタリア語の部分冠詞 男性形

男性部分冠詞の例

  • del vino rosso 赤ワイン
  • del colore 絵の具
  • del pane パン
  • del sesamo ゴマ
  • del miele 蜂蜜
  • del sale 塩
  • dei cioccolatini いくつかのチョコレート
  • dei libri いくつかの本
  • dei musei いくつかの美術館
  • dei cafè いくつかのカフェ
  • dello zenzero 生姜
  • dello yogurt ヨーグルト
  • dello spago 紐
  • dello zucchero 砂糖
  • dello spmante スプマンテ
  • degli spaghetti スパゲッティー
  • degli amici 何人かの男友達
  • degli sport いくつかの競技
  • dell’olio 油
  • dell’uva ブドウ
  • dell’arrosto ロースト肉

女性名詞に付く部分冠詞

単数形複数形
子音ではじまる女性名詞della(di la)delle(di le)
母音ではじまる女性名詞dell'(di l’)delle(di le)
イタリア語の部分冠詞 女性形

女性部分冠詞の例

  • della marmellata ジャム
  • della frutta 果物
  • della carne 肉
  • della colla 糊・接着剤
  • della carta 紙
  • delle maglie いくつかのセーター
  • delle paste いくつかのお菓子・スイーツ
  • delle moto いくつかのオートバイ
  • delle foto 何枚かの写真
  • delle novita 新しいこと
  • delle città いくつかの市
  • delle auto 何台かの車
  • dell’aqua 水
  • dell’insalata サラダ

習得のコツ

不定冠詞と定冠詞は名詞とセットで覚えます。暗記するしか学習方法はありません。口ずさみながら楽しんで覚えましょう。

まいにちスペイン語講座の学習体験記 2021年度後期講座を初めて受講しました

まいにちスペイン語講座 NHK 2021年度後期講座

NHKラジオ第二で放送している「まいにちスペイン語講座」の受講を完了しました。初めてスペイン語をこの講座で半年間かけて学びました。入門編の講師は柿原武史先生です。この入門編シリーズは音の風景といって飛行機やレストラン、食品売り場のスペイン語のアナウンスの一節をやさしく学習します。応用編では塚原信之先生とリディア・サラ先生が日常ででてきそうな話題をやさしく教えてくださいました。

テキストは2021年10月号から2022年3月号まで全6冊です。コロナで外出を控えていたため十分な学習時間がありました。

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まいにちスペイン語の感想

私がラテン語圏の言語を学習するのは英語、フランス語に続いて3言語目です。単語の性についてはフランス語の勉強で少しだけわかるようになっていました。

人称代名詞の省略

最初に驚いたのはスペイン語には主語となる代名詞が無いことです。まったく無いわけではなく、使わないことがよくあるみたいです。動詞の活用の中に主語が含まれているので主語を入れなくてもわかるのです。

講師の先生が「ウステ(usted, あなた様)に対する何々」「ウステデス(ustedes, あなた方)に対する何々」「トゥ(tu, 君)に対する何々」と説明していらっしゃいました。

これが初学者の私にはさぱり理解できません。

アナウンスも雑な感じで興味が湧きません。

あいさつの省略

私が学びたかったのはHora!(こんにちは!)から始まる基本の挨拶でした。しかし残念ながら一連の講座でそれらを学ぶ機会はありません。

私が最初に覚えた言葉が「Por favor.(お願いします。)」です。何かを注文する時に使う言葉です。

動詞の活用がわからない

そして、最後までわからなかったのが動詞の意味とその活用です。本当に何を教えているのかすらわかりませんでした。トゥやウステに対する何々と言われても、最後まで理解することができなかったのです。

発音規則だけわかった

NHKまいにちスペイン語講座を半年間受講してわかったことは、発音規則と前置詞です。冠詞類のことははっきり覚えていません。前置詞はフランス語とよく似ているので少しだけ覚えられました。

冠詞類も何とかわかった

スペイン語の定冠詞と不定冠詞についてわかったようなわからないような気がします。laはフランス語と同じです。elはスペイン語独特の冠詞です。losやlasは定冠詞複数形です。unやunaという不定冠詞はフランス語とよく似ています。unosやunasはスペイン語独特の不定冠詞複数形です。loは中性代名詞です。

ほとんど覚えられなかった

残念ながら私の記憶力はとても悪いので、半年間ではしっかりとスペイン語を覚えることができません。ほとんど何を言っているのか発音だけわかって意味がわからない状態が最後まで続きました。

やはり言語学習は記憶することが学習のコツだと思います。何度も繰り返し発音することで記憶に定着します。と誰でもそうアドバイスされますが、復習する暇もなく講座を終えました。

応用編は本当に聞き流すだけ、発音規則を学ぶためだけに半年間講座を受講し続けました。

わからないまま学習を続けることに戸惑いはありましたが我ながらよく続いたものだと思います。

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そして2022年度前期講座「まいにちスペイン語講座」がはじまりました。新しい講座ではソルバというおしゃべり猫ちゃんのおとぎ話風の内容にとても興味が湧きました。これなら継続してスペイン語の学習を続けられそうです。

人は分かり合えないが体験を共有できる

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親子、きょうだいしまい、夫婦や恋人同士、友人同士で気持ちが分かり合えることがあるだろうか。あるとすれば気持ちのごく一部だろう。他の人の苦労は自分が経験してみないとわからない。あるいはそんな風になったら嫌だなという気持ちになり表面的な同情をする。

人の気持ちは分からなくて当たり前

最も身近な人について考えてみよう。家族や恋人について。あなたはその人の頭の中を理解しているだろうか?何を考えていないかわからないはず。子ども同士の遊びを観察していても、それぞれがそれぞれの事に夢中になっていて一緒に遊んでいる子のことなどこれっぽっちも思ってない。

例えば何か悩みがあって気にしていることがあるとしよう。ほとんどが自分と他の人との関係について悩んでいると思う。同じようなシチュエーションでも全く気にしない人がいる。

学校や職場で何年も長時間同じ時間と場所を過ごしている友人や仲間の気持ちならともかく、離れてしまうと相手が相談を持ちかけてこない限り友人の窮状はわからない。会社を退職したら仲が良かった同僚と二度と会わないことは当たり前といえる。

人間関係の本質はその場限りであるのが自然だ。いくら親しくなっても年賀状で死ぬまでやり取りをしているのは公務員くらいだろう。会っては別れ、会っては別れを繰り返すのが私たちの人生の真実だろう。

親子でも分かり合えない

父がたどってきた歴史と母がたどってきた歴史は別々のものだ。子も親とは異なる性格や文化を持っている。兄弟姉妹でも子どもの頃は喧嘩ばかり。兄と妹は成長するともはや別の生き物であるが運が良ければ良き友人となれる。祖父母となると優しくしてくれる人であっても彼らの何を知っているというのだろう。やはり孫であっても祖父母の生い立ちから死までほとんど何も知らない。それなのに孫は愛されていることを確信して祖父母に甘えては困らせる。

コミュニケーションは表面上のやり取り

遺伝的に親密な関係でも分かり合えないのにコミュニケーション能力があるとは一体どういうことなのだろうか?おそらく日本人に理解されているコミュニケーション能力とは一方的に自己主張をできる人のことだろう。よくしゃべる人を観察してみると、自分のことを延々と話している。よく話す人は友人も多いけど、その友人はコバンザメのように寡黙だ。つまり友人といいつつ親分子分の関係が成立している。

コミュニケーション能力が高い人とは

本当にコミュニケーション能力が高い人というのは人生のドン底を味わった人のことだ。なぜなら人が体験するありとあらゆる苦痛を経験しているから感覚的に他人の苦労がわかるのだ。

そう思ったらコミュニケーション能力を高めようとは思わなくなるだろう。

なぜ結婚するのか

となると、なぜ人は分かり合えないのに結婚をするのか。それはお互いの存在を認め合いたい(孤独から逃れたい)から。共に人生を歩みたい、子孫を残したい、愛し合いたいなど理由はさまざまだ。分かり合えないまま結婚するのだから妥協と居心地のよさが必要だ。お互いに愛があればそれで十分だろうと思うも恋愛ホルモンも3年しか続かない。

人は自分のことすら知らない

子どもが最初に経験する感情は快と不快の二種類だ。眠る時の安らぎだ。食べる・寝るだけの生活からからちょっとした冒険をし始める。そこで世界を知る体験をする。少し成長すると自分の要求を母に突きつけるようになる。少しずつしたいことやしてほしいことが増えて行き子どもは成長する。

子どもは楽しいことしかやりたがらない。成長とともに、やりたくない事は少しずつ増えていく。そこで嫌だという感情を体験する。嘲笑を見て恥という感情を体験する。悪意を覚えるのも小学生からだ。大切な誰かが亡くなるという最初の悲しみを体験するのは10歳未満だろう。

子どもは、大人もそうで基本的に自分のことしか考えていない。友達のことを大切に思えるようになるのは思春期あたりからだろう。

初めて自分に降りかかるストレスを体験するのも子どものうちだ。孤立への恐れと友人関係が最初のストレスだろう。今はインターネットがあるので何らかの解決策が呈示されている。しかし人間関係の悩みは終生続くことになる。

恋や進路、就職とめまぐるしく時が過ぎる。そこで順調に生きることができればどれほど幸せだろうか。何の疑いもなく付き合った人と結婚できればそれが一番幸せだ。

感情の伝染

一人の赤ちゃんが泣くと近くにいた赤ちゃんも泣き始める。それは聴覚で音を受け取り感情が伝染するからだ。その逆はあるのだろうか?一人の赤ちゃんが笑うと近くにいた赤ちゃんも笑い始める。あるいは穏やかなる連鎖もあり得るのか。

私の体験ではすぐ近くで怒っている人がいると、それが他人なら不快になる。親しい人がネガティブな事を言っていると、それを聞いている自分も不安になる。

個人的な経験からは感情は移ると思う。それに対して意見が異なっていない限り。

発言してはじめて気持ちが伝わる

何も考えを言わなかったら他の人に気持ちは伝わらない。他の人に苦しみを告白できるのは安全な環境がある時だけ。自分が悲観しているのとは異なるアイデアを返してくれると安堵できる。それは最も身近な親子関係でも同じ。親祖父母が何を考えていたのか子どもはほとんど知らないはず。

家族でさえロクにコミュニケーションを取っていなくても一緒に行動することで知ったような気になっていた。でもそれは違った。家族というものは体験を共有するだけで感情までは共有していない。

人格を磨く

人と仲良くなるためには自分が成長するしかありません。子どもの頃の私は気が短かく臆病で怠け者でした。この性格がもともとの性格なのか後天的なものかはわかりません。しかし自己内省を繰り返すことで徐々に考え方が変わってきました。

できないことはできるまで努力するか、無能なままそこでやめるかどちらかです。家事も毎日やっていると次第にできるようになりました。人との会話もいつの間にかそれなりにできるようになりました。できないことを習慣にすることで何の苦痛も無くできるようになりました。

自分が成長することで怠け癖も次第によくなりできることが増えました。それはたくさん本を読んだり勉強して人格がより磨かれたからだと思います。

居心地のよい人間関係

幸福とは、お互いに居心地のよい人間関係を作ることです。親子関係や夫婦関係、コミュニティーなどでの人間関係。そのためにはまず自分自身を変えて少しのことで感情を波立たせないようにする必要があります。

として同じ体験を共有するためには、攻撃的な考えを捨てることです。信頼できる人とだけ付き合うことです。自らが信頼に値する人間になることです。

結婚のメリットと注意点

結婚

結婚について。ほとんどの日本人は結婚する事実。相性が良ければ最高の人生が保証されている。だが中には結婚に踏み切れない人もいる。ここでは結婚のメリットについて考える。

孤独からの解放

結婚生活が順調にいけば子や孫ができ孤独から解放される。物理的孤独からの自由を意味する。もちろん子孫が順調に育つとは限らない。そこそこの収入があって家庭生活を送れることが日本一の理想の人生像だろう。

結婚生活では途中で配偶者や子が亡くなるリスクもある。そうなったら別の幸せを見つけるしかない。年上すぎて先立たれることもある。また、年上すぎるとありのままの自分を表現できないかもしれない。

孤独の解決=結婚というイメージだ。

現実には性格の良い人かつ収入が安定している人というのは限られている。そのような異性はすぐに売り切れる。

性格という地雷

不幸を知らずに育った人や不幸耐性のない人は結婚生活に支障がでる可能性がある。運良く不幸を体験したことのない人は、確かに幸せ者だがちょっとしたことにネガティブな感情を持ちやすい。理系の人にありがちな印象だ。性格はお互いにポジティブなほうがよいだろう。

自分を表現できることが条件

お互いに自分の考えを表現できることはとても重要だと思う。そのせいで喧嘩になったとしても言いたいことが言える環境はとても重要だ。

しかし私の祖父母も親も、内面の苦悩を話している場面は見たことが無い。自分のことで悩んでいる様子は見たことがなかった。もともと幸せそうに過ごしていたが、決して楽な人生ではなかった。

不幸を受け入れる

結婚生活ではさまざまな問題が起きます。親の死や親族の問題、家族の人間関係など。病気と介護の問題など。感覚的に不幸な気分になるかもしれません。その時に力を合わせて乗り越える覚悟が必要です。健康そうな人を伴侶にすることでリスクは軽減されます。

選択肢は有限

ここはアメリカではありません。いくらポジティブになっても選択肢がありません。親を見送った老後はボランティアと趣味と自宅の片付け、アルバイトしか基本的にやることがありません。住んでいる場所で知り合いを作って仲良くするしか人生の選択肢がないのです。施設に入ったら昔の友人と会うこともなく、そこで知り合いと適度な距離感を保って仲良くするしか人生の選択肢がないのです。

離婚・再婚の自由が必要

国民ひとりひとりに人権が与えられ、自由に考えられることができるようになりました。しかし結婚制度は人権が制限されていて自由ではありません。人が生涯にたった一人だけを愛することはあり得ないということを誰もがわかっています。だから今の法律で結婚をしようと思うと責任感を感じるあまり晩婚になったり生涯未婚に至るのです。

女性の正規雇用が必要

恋多き殿方が多くの女性を付き合うためには女性が正社員で働ける環境が必要です。本当に自由に交際したいなら、シングル親の権利や子どもの養育費などの社会保障が必要です。

幸福になるたった一つの方法

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幸せになりたくてこれまでさまざまな思想を学んだ。というよりは助けを求めて貪り読んだ。だが自分に合う永続的な見地は見いだせなかった。つまり心から信奉できる考え方はなかった。仏陀のように欲を捨てることはできなかった。ジーザスのように人を愛することもできなかった。ポジティブ心理学のように物事を楽観的に解釈することもできなかった。気が付けば生きることすらどうでもよくなった。生きることそのものへの執着はなくなった。でもそれすら私の心的真実ではない。見栄えをよくするための嘘だ。実際に幸せな人がいることから自分も幸福になれる方法があると思った。

夢や希望

私の望みといえば、お金、名誉、安定した暮らし、健康、何でも言える人間関係など、他の人とそう変わりが無い。いわゆる「こんな暮らしだったら安心だ」という環境キットのことだ。世の中で起きているさまざまな出来事は常に夢と希望に関係している。

でも、それらは容易に手に入るものじゃない。今の世の中の仕組みでは生まれながらに大金持ちの相続人か、記憶力と世渡りがうまい人か、人並み以上に努力して成功した人と、その妻子のどちらかだ。

苦しみ

人生に苦しみは付き物だ。そのほとんどが他者との関係か、病気によって生じる。友人は多ければ多いほど良いと私は思う。家族も多いほうがよいと思う。大人になってから友人を作ることは難しい。都会では簡単に友人を作れるけど縁が切れるのも早い。職場で仲間がたくさんいても退職後に会うことは無い。大学の友人も遠くに別れてしまえば一生に一度会えたらよいほうだ。

幸せ

幸せはどの生活水準でも発見することができる。でも心から望んでいることは手に入らない。幸せとは天気が穏やかで良かったとか、その程度のことらしい。風呂が気持ちよかった、ビールがおいしかったなど。誰々と一緒にいられてよかった、などなど。

瀬戸内寂聴さんは人は幸せになれると説いておられた。だけどネットには幸せはなるものではなくあるものだという人もいる。幸せになれないという清水ミチコさんもいる。ほんと、混乱するよ。

でもね一番の幸せは言いたいことを言ったら別の見解を聞かせてくれる相手がいることだと思う。

幸福の条件

人は自分で幸福の条件を決めている。それによって快不快の表現を自ら許可している。人が何を幸福と思うかについては千差万別だ。

信じること

人は何かを信じている。救済だったり来世だったり、幸せになれることだったり。さてはて、信じ続けるには人生はあまりにも長すぎる。疲れてしまわないかい?でも人は何かに頼らないと不安になる生き物。この世にいない存在に対してならいくらでも甘えられるから宗教が作られた。

祈ること

子どもの頃から困った時に私は祈るようになった。神様仏様お助け下さいと。どこの神様でもいいから助けてほしいと思う。まだパンをくださいと祈ったことはない。心安らげるものならなんでも与えて欲しいとすら思う。嫌なことから遠ざけて欲しいし恵みは多いほうがいい。

永遠のすれ違い

人と人とが本当の意味でコミュニケーションをとることはできない。母娘だけは例外で濃密な日々を過ごして来た場合は意思疎通ができる。母息子では残念ながらまともな意思疎通はできないと思う。なぜならそういう生き物になるように作られているからだ。女性同士の意思疎通もそこそこ可能だろう。だけど雄という生き物は表面的なやり取りしかできない雰囲気がコミュニケーションの邪魔をしていると思う。

幸福度ランキングとコミュニケーション

おそらくは、幸福度ランキングが低い国ほど意思疎通が困難だと思う。理由は自由な感情表現が国によって制限されているからだろう。それは数字が示している通り不幸なことで苦しいことなのだ。その国でいくら心を健やかにしようとしても頭脳が病んだ社会では実現不可能だ。

楽しく生きること

誰もが毎日笑って好きな人に囲まれて暮らしたいと思ってる。そして実現する困難さに直面している人の多い事か。その原因は嫌いな人と結婚するからだ。家庭環境が良くないせいだ。労働環境が悪いせいだ。好きじゃなくなったら別れないからだ。嫌になったら離れないからだ。

幸福度ランキングが高い国では安心して離婚できる制度がある。自由で開かれた豊かな社会では努力して家族関係を維持する必要などこれっぽっちもない。

他者とそこそこ楽しく生きるためには平均的な収入が必要だ。

幸せになれるたった一つの方法

幸せになれる方法は一つではない。だけど幸福感を得られる方法が一つだけある。それは今あることに感謝することだ。昔の人はパンか米と水があるだけで神に感謝していた。常に飢えている世界中のほとんどの人たちにとっては食料があること自体が幸せだった。当時はほとんどの人が文字を読めず学校すらなかった。学校ができたときは学校に行けることが幸せだった。酷い病に苦しんでいた人は、日々少しずつ楽になっていくこと自体が希望であり幸せだった。

つまりすぐには得難い欲求が満たされることが幸せになれる確実な方法だ。

幸福とは条件である

これらのことから、幸福とは比較と条件であると断言できる。何か苦しい状態があって、それが何らかの原因で相対的に軽くなる。そこに人は幸福を感じるのだ。

人に善いことをすると嬉しくなったり誇りに思うのは、そうでない自分との比較だ。家族以外の人に話しかけて気分がよくなるのも、そうではない自分との比較によるものだ。

つまり以前の状態との比較に脳が喜びを感じている。その条件については次のような基本的欲求がある。

幸福とは欲求が満たされること

要するに幸せの本質は現状が改善されて欲望が満たされることなんだ。その例をあげてみたいと思う。

  • 健康状態が改善されたこと
  • スキルを身に付けたこと
  • 気分や体調が前よりよいこと
  • 人と話すこと
  • 食べるものがあること
  • 着る服があること
  • 毎日お風呂に入れること
  • 勉強や趣味に没頭できること
  • 家族がいること
  • 親戚がいること
  • 仕事があること
  • 生きていること
  • 天候が穏やかなこと
  • 自然を見て癒されること
  • 信仰心があること
  • 部屋が掃除されてきれいなこと
  • 図書館から無料で本を借りられること

などなど、大抵の人が幸せだと思うことはこうした無い事と比較したうでの条件そのものだ。

しかしそれがわかっていながらなぜ毎日ご機嫌になれないのか?仕事や勉強、日々の生活に身が入らないのか?あるいはそれ以下の気分になるのか。

それは心がフラット以下になるようにできているからだ。神経が疲れると気持ちが沈んでしまう。

確かに幸福だと信じ続けることができたらいいのにと思う。

高次の欲求

基本的な条件が整えば、欲望はさらに次の段階に進む。それはマズローの言うような自己実現や所属と愛の欲求だ。これは要するに他の人から認められることを意味する。信頼に値する人間になるということだ。そのためには何らかのスキルの習得が必要となる。これらの幸次の欲求が叶わないから現代人は苦しんでいる。そしてこうした欲望を望んではならぬという自己啓発人まで現れるから邪魔が多いことは言うまでもない。

個別の幸せの条件

人にはそれぞれ好みというものがある。欲しいものはさまざまだ。有名人に会えばご機嫌になれるという人もいるだろう。好きな物を集めることが楽しいという人も。好きなスポーツも人それぞれ。犬が好きな人、猫が好きな人、別の生き物が好きな人。個別の幸せの条件については私がここで述べることはできない。

群れる

人は群れの生き物です。何らかの群れに所属していることは幸せの絶対条件に入ると私は思います。なるべく誰かと暮らした方がいいと思います。

ここに書いた以上の幸せは無い

世の中のどこをどう探してもこのページに書いた以上の幸せは無い。億万長者ですら例外は無い。欲しい物は自分で努力して得るしか無い。うらやましいと思う物があれば得られる努力をするか、あきらめるほか道はない。他人からの愛情も無料では手に入らない。常時ご機嫌でいるためにはその生活水準を維持するお金が必要だ。勉強で身に付けたスキルとお金と社会貢献だけは自分を裏切らない。

幸福感は一瞬

何かを得たと思って生じる幸福感は一瞬の感情だ。何度も思い出して幸福感に浸ることでも幸福感は得られる。大好きな誰かと過ごしたとしても幸福感は永続的なものではない。

幸せなことは毎日記録せよ

幸せだと感じたことは一生物のノートにメモしておくことだ。書き留めていればいつかは宝の山となるだろう。忘れないうちに子どもの頃の記憶も書き留めておこう。その日の食事内容も。

長生きが幸せとは限らない

今ある幸せに気づくと失うことがとても恐ろしくなる。どんなに幸運な人でも幸せは長続きしないようにできている。幸せそうな人生を送って来た人は退職後に内臓を痛めている人が多い気がする。それはまるで好きな食べ物を食べて行きたい場所にたくさん行ったことの証明書のようだ。逆に幸福感を追い求めずフラットな精神で我慢を続けて来た人のほうが晩年は健康だったりする。

皆婚時代のおばあ様が長生きなのは、好きでもない相手と結婚してしたいこともせずに家庭でずっと我慢していたおかげだ。

でもときどき人はこう思う。自由なら人生の終わりも自分で決めたいと。持っていた幸せを失って苦しむくらいなら苦しまない道を選びたい。それこそが本当に安心して自分の人生を積極的に生きられる幸福の権利であると私は思う。

この世界で生きることは本質的に悲しいこと

誰もが幸せになりたいと思うも絶対的な幸せは誰一人として手に入らない。私たちは悲しみと喜びを繰り返して日々生きている。どんなに幸せに見える人でも決して絶対的な幸せになれない。若さは二度と手に入らず、失った日々も戻って来ない。ディズニーランドにハマる人も、酒場で楽しく騒いでいる人も、その時に浮かれているだけだ。

どれほど気分が良くても自分の運命を思うと沈痛で悲しい気持ちにならざるを得ない。ハリウッドスターでさえ幸せではない。そう思うと永遠の幸せなんて存在しないと思わないか?

幸福と不幸は表裏一体

なぜ人は幸福を求めるのか。それは死を本心では不幸と思っているからだ。命は有限であり幸福も減ることを知っているからだ。魂の救済を信じて生き続けるには長すぎる現代、趣味を極めても称賛も褒美も得られず楽しくなくなってしまう。長寿時代のおかげで道徳心のある人が増えて治安も改善されたというメリットはある。そして苦悩もインターネットで共有できるようになったことは喜ばしいことだ。

病を得れば、病が無い状態の有難さを知り、家族を失えば家族がいる状態の有難さを知る。富と名声や権力を得るには幸福感という感情を捨てる覚悟がいる。

何かの幸福を得るには、苦痛に耐えたり何かと交換しなければならない。愛情ある人が家族にいる場合、幸福であると同時にその人を失う苦痛と悲しみは深くなる。可愛く育った子どもが結婚を果たすと親は孤独になり夫婦間のコミュニケーションの問題が浮き彫りとなる。大きな家に住んでいると出費もかなりのものになる。

自己対話の重要性

より幸福な人生を送るためにはポジティブでいることは必須です。そのためには多くの偏見を自分から取り除く必要があります。自分や世の中を肯定することです。ベストを尽くした自分は悪くないのです。

自己啓発や人生訓は役に立つのか

自己啓発や人生訓は役に立つのか?

大きな悩みがある時に人生訓や自己啓発は役に立つのでしょうか?受験や就職・結婚といった人生の大きな節目に悩みはつきものです。そのときに読むのが偉大な先人が残した言葉や人を励ます本です。果たしてそれらの有難いお言葉は本当に役に立つのでしょうか?

偉大な人物の言葉は役に立つのか

とても困っている時に誰かに温かい言葉を貰うと元気がでます。映画に感動すると困難と闘った主人公と同じ勇気を感じます。しかしそれは本当にあなたの人生の役に立つのでしょうか?確かに言葉ひとつで人生が好転する人もいるかもしれません。

例えば大切な人を亡くして落ち込んでいる時に一番お世話になるのが宗教の本です。仏陀の言葉やそこから学んだ人が人を慰めるために発した言葉です。あるいはキリスト教やイスラム教などの聖典のお世話になることもあるでしょう。

次に助けとなるのが偉人が残した言葉です。実際に歴史に名を残した人物の言葉には説得力があります。なぜなら実体験に基づいて得た教訓だからです。

現役の実業家や学者などの有名人の言葉も有難いものです。

信じれば効果がある

疑いなく彼らの言葉を信じられる人は幸せ者だと思います。いわゆる「信じれば救われる」という諺のことです。そのまま一生幸福な夢から覚めなければその人の人生は幸せなのでしょう。それならなぜ日本は幸福度ランキングが低いのでしょうか。

信心深くても貧しい現実

しかし現実は信仰心が厚い人ほどその生活は貧しいです。毎日神様や仏様にお祈りしている人で、どのくらいの割合の人が豊かな生活を送っているのでしょうか。貧しくても毎日朝夕と寝る前の祈りを欠かさなかった人は長生きできたのでしょうか?

私の周囲の人たちで熱心に祈っていた人たちはみんな貧しいです。毎週末に遊び歩いているような人のほうが裕福です。信仰熱心な人ほど低収入で節約に節約を重ねています。

ポジティブ信仰は役にたつのか

次に、今はやりのプラス思考について考えたいと思います。コップに水がある時にポジティブな人は「まだ半分ある」と考えることです。ネガティブな人は「半分しかない」と考えるのです。これは本当に前向きと後ろ向きの言葉なのでしょうか?

別の言葉で考えてみましょう。自動車のガソリンが「まだ半分ある」と考える人は本当にポジティブなのでしょうか?ガソリンが「半分しかない」と思う人は本当にネガティブ思考なのでしょうか?

この考え方の違いそのものは本当にポジティブとネガティブで区別できるものなのでしょうか?

私の答えはポジティブでもネガティブでもないと思います。しかも対立しているわけでも無いと思います。ある現象を単に二通りの言葉で表現しただけです。「しかない」という言葉を思いついたくらいで何も暗い気持ちになる必要すらありません。

信じれば効果がある

現象を別の言葉で表現しただけなのでポジもネガも無いと思います。要は言葉遣いの問題です。

これらのポジティブ思考も「信じれば救われる」と同類の価値観です。「幸せになれる」と信じているのです。偉人の言葉同様にポジティブ信仰を信じられる人は本当に幸せな人だと思います。

信心深くても貧しい現実

前向きな考えをいくら信じていても、現実は貧しい人がほとんどです。それでもなお信じたいというなら信じればよいと思います。愛情やお金や望みの子孫が手に入ると信じて、信じて、信じ続けた結果はどうなったでしょうか?お望み通りにならない人のほうがほとんどだと思います。それでも信じ続けられる人は幸せだと思います。

ぜんぶ捨てたら幸せになれるのか

昔は食い扶持を減らすために親が子をお寺に預けたり、労働力として手離すことが当たり前にありました。その子たちは自分の意思にかかわらずそうなる運命が決まっていました。幼少よりすべてを捨てて生きて行かねばならない人がほとんどでした。

彼らは少しでも自分たちの心を慰めるためにこう思います。「何も望まなければ幸せだ」「生きているだけで幸せだ」と。そう信じられる人は本当に幸せなんだと思います。でもそれは置かれた境遇に対して不満を消して生き延びるための言葉です。

こうした価値観が根強い地域は現代でも貧しいままです。例えばブータンやチベットのような国では子どもたちが出家することで見た目の平穏が成り立っています。僧侶にとって寄付で食べさせて貰えるだけで有難いのです。そこで修行して幸せになる考えを徹底して身に付けます。

確かに他者との共同生活で一生を終えることは幸せなのかもしれません。

しかしここは日本なので長生きできる環境が整っており寺などでの共同生活は楽ではないと思います。

ネガティブは悪か?

寂しい孤独虚しい。これらの感情を私はここで名付けて三大ネガティブ感情と言いましょう。人はこれらの感情を避けるためにさまざまな努力をします。他人にしがみつく行為が一番簡単です。でもそれでは嫌われてしまうので友達や恋人の振りをしてしがみ付きます。

しかし考えてみてください。この感情は人が生きるうえで欠かせない感情ではないでしょうか。寂しいから人は群れ、孤独だからこそ人は愛し、虚しいからこそ人は楽しみを作り出します。

私たちはこれらの感情が湧き出る状況をとても恐れています。日本人は学校でそういう風に刷り込まれたからでしょう。

つまり、友人が多いほど、家族が多いほど、物理的孤独な人よりも精神的に弱いことを意味しています。

楽しい感情は一時的

よく人は「楽しくなりたい」「気持ちよくなりたい」という欲求を抱きます。感情を得るためにディズニーランドに行ったりダンス飲み屋に行ったりします。ゲームに没頭する人もいます。パーティー三昧の人もいるでしょう。何かにハマるという行為もこの範疇に入ります。

これらは一時の娯楽なので時間が過ぎればもとの感情に戻ります。楽しい時が毎日続くと人は体を壊してしまいます。つまり、楽しいことは長時間続けると異常です。

ですが人はこの一時の感情のために働き続ける傾向があります。それで収入を得ることができればプロと褒めたたえられ、一円にもならなければ中毒と罵られます。

幸福感は一時的な感情

誰もが認める幸せという感覚は一瞬の感覚です。脳が快楽物質を解放しただけです。人はその感覚を求めて行動します。ここで言う幸せとは快楽です。古代の人であれば祭りや宴会、婚礼、見世物の鑑賞などがそれに当たります。君主から褒美や社会的身分を貰った時の「有難き幸せにございます」という気持ち。病がよくなった時の嬉しい気持ちなど。

不幸な気持ちは長く続く

幸せは一瞬なのに、不幸な感情はどうして長く続くのでしょうか。しかも嫌悪感といったら最悪な気持ちです。会いたくない人に会う事や、行きたくない場所に行くこと、望まないことが起きる事。そうした感情を少しでも忘れたいと思います。不幸は自分が引き起こすものもあれば他人がもたらすことも多いです。

偉人も成功者も孤独

そこそこ有名になって成功した人でも鏡に映った自分を見て孤独を感じます。どんなに偉い人でもそうした負の感情は避けられません。お酒や夜遊びで気を紛らわせても、肝臓が悪くなるだけです。

これらの気持ちが湧きあがった時に書物を開いて慰められたらどれほど有難いことでしょう。ですがその偉大な先人の書物を暗記する程覚えてしまえるほど人生は長いです。

家族がすべてか

現代フランスや北欧では人は何度か伴侶を替えます。子どもにとって親の存在は永遠ではないということです。別の人と子を作ったとしてその人と親子ごっこを楽しめるのは数年でしょう。自由で開かれた社会では親に甘える必要がないのです。

しかしなぜ日本人は親に何十年も甘え続けるのでしょうか?実家を出ない男性はずっと親に甘えていられます。

よくテレビで家族が第一と言ってる人がいます。鶴瓶の家族に乾杯というテレビ番組です。そこではそこそこ裕福な家庭の様子が映されています。

この甘えの価値観の裏側には甘えなければ不幸だという認識以外に理由があるでしょうか?

成功しない人にとって人生訓の価値とは

世の中のほとんどの人はテレビや新聞、メディアに名前が載ることもありません。ほんの少し載った程度で成功とは言えません。運良く晩年に成功なさる高齢者もおられます。でもそれはほんのごく一部の人たちです。ほとんどの人は世の中に知られることなく生涯を閉じます。

偉人の言葉を信じて成功すれば役に立ったことになるのでしょう。しかしビジネスで成功しなかったほとんどの人はこれらの啓発書を読んでも成功しなかったのです。

唯一不変の真実とは

この世には誰にでも当てはまる不変の法則があります。生者必滅です。昔の人はこのことに真剣に取り組んでいたと思います。この事実を最初に歴史に残した人はブッダです。裕福な王子に生まれたブッダですら虚しい、無常だと思って憂鬱になられたのです。修行をしてこの気持ちを消そうと努力したのです。この人間であることの苦しみはまさにここに端を発しているように思います。

さすがにこればかりは否定のしようがありませんので諦めて受け入れるしかないのです。

幸福と喪失は表裏一体

ですが、祭りの後の虚しさや何かを失った時の虚しさ、そういったものは幸福とセットで付いてきます。動物を飼えばいつかは亡くなります。感情を満たす対象は永遠ではないのです。結婚すれば伴侶を失う可能性があります。出産すれば子を失う可能性があります。人と出会えば別れる寂しさが必ず生じます。

人は何かを得ると、何かを失います。

まいにちイタリア語 2022年前期講座の勉強をはじめました!

まいにちイタリア語 NHK語学講座

NHK語学のまいにちイタリア語という15分間の講座を受講しました。私がこの言語を学ぶのは今回が初めてです。以前から興味があり知りたいと思っていました。少ない時間でも外国語を習得できることに喜びを感じます。

講師は張あさ子先生です。パートナーの先生方は写真家でイタリア語講師のジョバンニ・ピリアルヴ(Giovanni Piliarvu)先生と東洋文学にお詳しいサーラ・グランデ(Sara Grande)先生です。

このテキストの楽しみはイタリアの写真や巻末に載っているエピソードです。より臨場感を持って学習できるように内容が工夫されています。

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基本動詞essereと冠詞-2022年4月号

テキストの内容は物語風となっています。あかね(Akane)という会社員を辞めてイタリア留学している女性が主人公です。ホームステイ先でのホストファミリーとの交流が描かれています。あかねの声をご担当されていらっしゃるのは女優の渡辺早織さんです。

初月の講座内容は基本動詞essereと冠詞などです。

イタリア語の挨拶

Ciao(こんにちは)という挨拶表現を最初に学びました。チャオという言葉は世界まち歩きという番組で何度か聞いておりました。でも自分が使う側になることを想定して聴くと違う世界が見えてきます。Bongiorno(こんにちは)という挨拶も今までは知らない国の知らない言語としか思っていませんでした。不思議なことは講座を聴くだけでそれらの言葉が臨場感たっぷりに感じます。

Buonasera(こんばんは)。Piacere(はじめまして)。Piacere mio(こちらこそ、よろしく)。Benvenuto(男性に、ようこそ)、Benvenuta(女性に、ようこそ)。

動詞essere

エッセレは英語でbe動詞に相当します。何々「です、ます、いる、ある」という意味です。他のラテン語系の言語と同様に人称や時制で活用が変化します。

内容自体はとても簡単でやさしいです。難しいと思うのは学んだことを「覚えること」です。特に動詞の活用はどの言語でも覚えづらいです。

人称代名詞

さっそく人称代名詞を学びました。io(私は)、tu(君は)、lui(彼は)、lei(彼女は)、Lei(あなたは)です。essereも主格に応じて変化します。

不定冠詞

やはり冠詞は最初に学ぶみたいです。unが男性の定冠詞でunaが女性の定冠詞です。

定冠詞

定冠詞は他のラテン語系言語より複雑です。

男性名詞では、子音ではじまるほとんどの男性名詞はil(男・単数)/i(男・複数)、s+子音やzではじまる男性名詞はlo(男・単数)/gli(男・複数)、母音ではじまる男性名詞はl’(男・単数)/gli(男・複数)があります。

女性名詞では男性名詞では、子音ではじまる女性名詞はla(女・単数)/le(女・複数)、母音で始まる女性名詞はl’(女・単数)/le(女・複数)があります。

代詞(代名詞)-人称代詞-指示代詞-疑問代詞の一覧表-中国語文法

代詞(代名詞)中国語

中国語の学習をはじめた時に最初に覚える単語が代詞(代名詞)です。代詞とは代名詞に相当する語で人や物、事を代詞にに置き換えて表します。大詞には人称代詞と指示代詞とがあります。人称代詞は人称代名詞に相当する語で「私」や「あなた」のように人を指す言葉です。指示代詞は指示代名詞に相当する語で「これ」「それ」など物や事、場所などを指し示す言葉です。代詞は中国語で「代词」と綴ります。代詞は名詞や形容詞としての働きがあります。標準中国語(普通话、中文)の代詞(代词)は三つの分類があり、人称代詞と指示代詞と疑問代詞があります。

人称代詞(人称代名詞)

人称代詞は人称代名詞に相当する単語です。人や物を置き換える言葉です。「私」や「私たち」「あなた」「あなたたち」「彼」「彼女」「彼ら」「彼女ら」といった人や「それ」といった物を示します。人称代詞の使い方は英語の人称代名詞と同じです。例えば「私は図書館へ行きます(行きました)」と中国語で言うと「图书túshūguǎn。」となります。中国語の人称代詞は目的語格や所有格としての働きもあります。

人称代詞一覧表

人称代詞発音意味
私、I
我们wǒmen私たち、we
咱们zánmen私たち(話し相手も含める)、we
あなた、you
你们nǐmenあなたたち、you
nínあなた(敬称)、you
あなた方(敬称)は您们としない。
彼、he
他们tāmen彼らthey
彼女、she
她们tāmen彼女ら。they
それ(人間以外)、itやthey。
它们tāmenそれら(人間以外)
大家dàjiā皆、みんな、皆さん
ǎn
俺们ǎnmen私たち
自己zìjǐ自分自身、自分
(兼語文で)彼、彼女、彼ら、彼女ら、それ、あれ、それら、あれら
(文語文で)お前
吾辈wúbèi(文語文で)私ども
zhèn(文語文で)中国と日本の皇帝が自分のことを呼ぶ呼称。チン
(文語文で)私、私たち
zhī(文語文で)彼、あれ、あの人、
人称代詞一覧表

この表には私がこれまで見たことのある中国語の人称代詞を一覧形式で掲載しています。

文語文では現代と異なる人称代詞が使われており、他にはěr(あなた)、nǎi(あなた)、ruò(お前、そち)、(君主の自称)、(君主の自称)、寡人guǎrén(君主の自称)などの呼称があります。

指示代詞(指示代名詞)

指示代詞は指示代名詞に相当する単語です。「それ」「これ」「あれ」などと物などを指す言葉です。人や物、状況などを指し示す働きがあります。「これ」は「这」に量詞や名詞を加えて「この何々」という風に表現します。「あれ」も同様に基本の単位となる量詞などを加えて「あの何々」と表現します。

指示代詞一覧表

指示代詞発音意味
这+量詞+名詞zhèこの+名詞★基本の指示代詞
这个zhègeこの
这里zhèbiānここ、こちら。★基本の指示代詞
这边zhèbiānここ、こちら、この辺
这儿zhèrここに。★基本の指示代詞
那儿nàrあそこに。★基本の指示代詞
这会儿zhèhuìr今ごろ、今時分。★基本の指示代詞
那会儿nàhuìrその時、あの時、あの時分。★基本の指示代詞
那+量詞+名詞あの+名詞★基本の指示代詞
那里nàbiānあそこ、あちら。★基本の指示代詞
这样(儿)zhèyàng(ér)这么样。こんなに、あんなに、こういう。★基本の指示代詞
那个nàge/nèigeあの
这点儿zhèdiǎnrこれっぽっちの、たったこれだけの
这些zhèxiēこれら、these
那边nàbiānあそこ、あちら、あの辺
那点儿nàdiǎnrあれっぽっちの、たったあれだけの
那些nàxiēあれら、those
その、あの、そんな、あんな
ここ、この時
běnこちらの、私どもの、本、当、現在の
别的biéde別の、他の(物事)
旁的pángde他の、別の(物事)
那样(儿)nàyàng(ér)那么样。あのような、あんなに。★基本の指示代詞
另外lìngwàiほかの、別の
这么zhèmeこんなにも、そんなに、本当に。★基本の指示代詞
那么nàmeあんなにも、そんなに、本当に。★基本の指示代詞
měiそれぞれ、おのおの★基本の指示代詞
mǒuある、某。★基本の指示代詞
おのおの、それぞれ。★基本の指示代詞
lìng別の、ほかの。★基本の指示代詞
这时zhèshíこの
那时nàshíそこら、そのころ
其余qíyú残りの、あとの、ほかの
其他qítā残りの、別の、ほかの =别的
gāiこの、その、上記の
指示代詞一覧表

こちらの表には私が今まで中国語学習をしてきた中で見た事のある指示代詞に相当する語を一覧表形式で掲載しています。これらの掲載語だけが指示代詞の全てというわけではないと思います。正確には副詞的な意味を持つ語も含まれますが、品詞は代詞なので指示代詞に含めました。想像していたよりも代詞の種類が多いので、他にも代詞があると思います。

疑問代詞

疑問代詞とは「何」「どれ」「いつ」など疑問詞にあたる語です。英語でwhatやwhich、who、whenなどに相当します。中国語で疑問代詞のことを「疑问代词」と言います。

疑問代詞一覧表

疑問代詞読み方意味
什么shénme何の、どのような。what ★基本の疑問代詞 ( 指代一般名词)
怎么zěnmeどう、どのように。how ★基本の疑問代詞 (指代谓词)
shéi誰。who, whom ★基本の疑問代詞 ( 指代一般名词)
どれ。★基本の疑問代詞 ( 指代一般名词)
いくつ、いくら。how many, how much ★基本の疑問代詞 (指代数量名词)
哪里nǎliどこ。where ★基本の疑問代詞 (指代处所名词)
zěnどうして、どのように
为什么wèishénmeなぜ、どうして、何のために
干什么gànshénmeいったいどうして
什么时候shénmeshíhouいつ
怎么样zěnmeyàngどんな、どのような、どんなに、なんとか(指代谓词)
怎样zěnyàngどんな、どのような、どんな風な(指代谓词)
多少uōshaoいくら、いくつ、どれほど(指代数量名词)
什么样shénmeyàngどんな、いかなる
哪儿nǎrどこ (指代处所名词)
哪些nǎxiēどの、どんな
哪个nǎge/něigeどの
哪么nǎmeどのように
哪样(儿)nǎyàng(ér)どのような
多会儿duōhuirいつ、いつ頃 (指代时间名词)
哪会儿nǎhuìrいつ、いつ頃
哪边nǎbiānどこ、どちら、どの辺
为何wèihé(文語文で)なぜ、どうして、どういうわけで
几时jīshíいつ(疑問代詞+名詞)
什么地方shénme dìfāngどこに(疑問代詞+名詞)
哪一个nǎyīgeいずれ、どれ、which
什么事shénme shìどんなこと(疑問代詞+名詞)
什么人shénme rénどんな人(疑問代詞+名詞)
什么东西shénme dōngxīどんな物(疑問代詞+名詞)
怎么办zěnme bànどうする(疑問代詞+名詞)
怎么做zěnme zuòどう作る(疑問代詞+名詞)
几个人jǐ gě rén何人(疑問代詞+名詞)
哪个人nǎ gě rénどの人(疑問代詞+名詞)、which
谁的shéiシェイ deドゥァ誰の(疑問代詞+助詞)、whose
duōドゥオどれくらい(指代副词)
疑問代詞一覧表

疑問代詞をまとめていて思ったのが、すべての代詞がこれらの三分類に収まるわけではないということです。ですが、中国語の教科書や辞書には具体的な分類名が書かれていなかったので、ひとまず三大分類に収まるように分けました。

私は中国語の学習者のひとりであり教師ではないので間違えている可能性もございます。これらの表は自分で作成したノートから書き写しています。日常では使わない古語も混ざっている可能性もありますのでご注意ください。ここに掲載したのは一部です。すべてを網羅しようとすると、頭痛がしそうですね!

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